▽ケース2 今日も売上が悪かった。このぶんだと…
飲料メーカーに勤める裕子さん(29歳)は、日々の売り上げに一喜一憂している営業ウーマンである。彼女は「一喜一憂どころか、”一憂一憂”の毎日です。とくに締め日が近づいて、昨日もダメ、今日もダメとなると、目標を達成できないのではないかと心配になって夜も眠れない」とため息をつく。
数字で評価される仕事というのは、目標が達成できないと、自分の評価が下がるだけではなく、歩合制の給料まで減るのだから、心配するのもムリからぬ話である。
しかし、「今日も売り上げが悪かった」ことにクヨクヨしたところで、当然ながら、「心配したご褒美だよ」と数字がポンポンと上がるわけはない。この際、目標達成に関する心配は脇に置いて、明日の英気を養うほうが賢明だ。
心配していると、気持ちが沈むばかり。仕事に向かう気力がなくなるし、その分、行動も消極的になってしまう。そんな状態で仕事をしていて、はたしていい結果が出るだろうか。
答えは「否」。どんな職種、仕事の成果というのは、「嬉々として仕事に取り組む」人のみが手にするものである。
では、どうすれば”心配モード”から脱出できるか。
頭のギアを「心配」から「反省」に切り替えることにある〈第二の習慣〉
たとえば、車のセールスをする豊さん(34歳)は、「心配性の虫」を退治する方法を、トップセールスマンの先輩を見て学んだという。
「私もセールスを始めた当初は、目標数値の達成を心配することが仕事…みたいな毎日でした。
でも、あるときふと、トップセールスマンとして何度も会社から表彰されている先輩を見ていて気づいたんです。先輩だってうまくいかない日はあるわけだけど、彼はそんな日に『ん~、今日はダメ、ぜんぜんダメ。反省して仕切り直し、仕切り直し』
というのが口ぐせだということに」
よくよく観察していると、一人でぶつぶつと『ここは粘り負けだったな。よし、明日もう一度、行ってみよう。もっと粘れば落ちるかもしれない。あと、今日は回るルートがまずかったな、渋滞にひっかかってばかりで。明日は渋滞情報をキャッチして、空いたルートで”下手な鉄砲も数打ちゃ当たる”方式でいくか』なんて言ってるんですよ。ほんの20~30分なんですが、その反省が終わるとやたら元気になってる。
これだ、と思いました。今日一日を悔やむのではなく、反省して明日の挑戦意欲をかき立てることが、だいじなんだってわかりました。
まだまだ終業が足りませんが、先輩のマネを始めてから、仕事に向かう気持ちがすこしづつ、明るくなったように実感しています。それにつれて、数字も伸びてきました。前を向いて一生懸命がんばれるようになった分、『数字がつくれなくても、それを反省材料にして、また仕切り直しでやるしかない』と腹をくくれるようにもなりました」
豊さんはいまさらのように、「心配するのが仕事」だった毎日に、いかに時間をムダ遣いしていたかを思い知らされたそうだ。
みなさんも、成果の上がらなかった一日を後悔して先を心配するのではなく、「反省材料」にして先につなげるよう心がけてはいかがだろう。気持ちが明るくなるだけでもトクである。
▽ ケース3 なぜ、あんなことをしてしまったのか…
繰り返すが、過ぎてしまったことを悔やんでも、やり直しはできない。過去の過ちにいくら拘泥(こうでい)⦅必要以上に気にしてとらわれる⦆しても、事実を塗り替えることは不可能である。
ただ、「わかっているけど、ついクヨクヨしてしまう」のが”心配性さん”だろう。過去の失態に悩む人はたいてい、現在の苦境の原因をそこに求めてクヨクヨする。
「あんなことを言ったばかりに、信頼を失った」「あんなつまらないミスをしたために、仕事を干された」「あの時点で仕事の優先順位を間違ったせいで、重要な仕事のチャンスをみすみす逃してしまった」あのとき怠けたツケというべきか、眠る時間もないほど忙しくなった」などと、過去に遡って「あんなことをしなければ、言わなければ」と悔やみつつ、いま置かれている状況を嘆くのだ。
こういうときはまず、「ケース1」と同様、過去をいったん受け容れることが必要だ。そのうえで、「いま心配なこと」をひとつづつ解決していく姿勢を整えるのだ。
OLの渚さん(35歳)は「この年になってようやく、自分にとってイヤな過去と正面から対峙(たいじ)できるようになった」と言う。
「20代のころは、クヨクヨしてばかり。未熟な分、失敗も多くて、毎日のように自分の行動を反芻(はんすう)しては落ち込んでいました。でもあるとき、同僚に『失敗は成功の母よ。失敗すると経験値があがるでしょう?』 それが、いろんな出来事に柔軟に対応できる、ある種の武器になるのよ』と言われました。
なるほどと思いましたね。イヤなことを反芻(はんすう)してても心に苦い味が広がるだけだけど、ちゃんと消化すれば栄養源になるんだって思ったんです。
以来、まずいことをしたり言ったりした場合は、『消化しなきゃ、消化しなきゃ』と念仏のように唱えています。
社会人になってもう10年以上たってもなお、公私にわたって『あれはまずかったなぁ』と思う行動はなくなりません。失敗の蓄積が続いている状況です。
でも、いまは大丈夫。『さぁ、消化しよう』と決めて、何がいけなかったのか、どうすればよかったのか、何が心配で、現時点で対応できることはないかを考えるようになったから。
そうすると、たとえば私の一言で誰かを傷つけ、嫌われるのではないかと心配するようなとき、自分が言いすぎたと反省すれば相手に謝罪します。主張を曲げたくなければ、傷つけたことを詫(わ)びつつ、もう一度話し合いの場を持つように心がけます。いままでは「しまった」という気持ちが負い目になって、相手を避けるという行動になっていたんです。
また、仕事でミスをしたとき、それを振り返るのはつらいけど、何が原因だったかをとことん分析します。ときどき、気持ちを整理するために、紙に書くこともあります。そして、原因の一つひとつについて対応を考え、今後の教訓にすることも含めて、できることからやっていきます」
渚さんはいまでは、
「過去の存在価値は、いい将来を築くタネとするところにある」〈第三の習慣〉
とキッパリ。いまにどんな悪い影響を及ぼす過去であっても、あるがままに受け容れて、自分の中で消化することによって、今を生きるための栄養源にしている。
▽失敗を認めないと、逆に心配は長引く
これら三つのケースを通して私が言いたいのは、「やってしまったまずいことを、たしかな事実として受け止め、何が心配なのかを明確にして対応を練り、前に進もう」ということである。
けっして「やってしまったことは仕方がないんだから、自分の中でなかったことにして前に進みなさい」ということではない。
単に「仕方がない、仕方がない」と上っ面で過去を清算するのは、あまりにも軽薄だし、せっかくのまずい経験もムダになる。周囲の人からも「反省しないヤツ」というレッテルを貼られるだろう。
「過去の清算」とは、言ってみれば「クサイものにフタをする」のではなく、「クサイもののフタをとって中にはいり込み、イヤな臭いを吸うものの毒素を分解して浄化する」作業である。つらいのはいっときで、心配性が長引く苦痛はなくなるに違いない。