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button-only@2x 頼られるのも仕事のうちと考えよう

辛抱強い人というのは、なかなか頼りになる存在である。

ある企業の中間管理職、Aさんはいう。

「私のいちばん重要な仕事は、部下のひとりひとりが気持ちよく働ける環境をつくることだと思っています。そのために必要なのは忍耐です。」

Aさんは何人もの部下を抱えている。

部下の性格も十人十色。やたら自己主張が強いのもいれば、引っ込み思案もいる。たたかれてもへこまないのもいれば、ちょっとした問題を深刻に考え込んでしまうのもいる。

平気で手を抜く者もいれば、完璧をめざすのもいる。お調子者、野心家、神経質、石頭、根性人、遅刻魔、病人、けが人…。もうあれやこれやで、大変なのである。

それをまとめようというのだから、ちょっとやそっとの辛抱強さでは追いつかない。だが、Aさんはなかなかうまくやっている。

相手の性格、ものの見方、反応のしかた、能力、適性などをよく見て、話しのもちかけ方や説明のしかたを変えるのがうまいのだ。

そんなことは当たり前ではないか、と思われるだろうが、実際にやるとなるといかにむずかしいことか。

それを可能にしているのが、Aさんの場合、辛抱強さなのである。

おかげで部下からは頼りにされている。ほかの上司とぎくしゃくすれば、

「Aさんに助けてもらおう」

となり、仕事でわからないことがあれば、やはり「Aさんに聞いてみよう」。個人的な問題も「Aさんに相談してみようかな」。

上司からの信頼も厚く、やはり何かにつけて「なあ、A、どう思う?」「A、ちょっとこっちも知恵を貸してくれ」。

というわけで、この職場では、「困ったときにはまずはAさん」「何はともあれ、まずはAさん」が常識となっている。

こんな具合なので、Aさん自身には相当なストレスがたまることもあったようだが、「頼りがいがある」といわれて悪い気はしない。

「頼られることも私の仕事ですから」とさらりといって、ますます人望を集めるというわけである。

辛抱強い人は、頼りがいがある。感情をコントロールできるから、問題が起きてもわーわー騒ぎ立てたり、かっかしたりしないかただ。まわりの人を安心させるのである。

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【「自分」のない人は、自分から疲れていく】

こんなお母さんを思い浮かべてほしい。

某教育評論家の「子どもはのびのび育てろ」という一文を読んで、

「そうか、子どもはやっぱりのびのびさせなくちゃ」

と放任する。ちょっといたずらしたぐらいでは叱らない

しかし、次にほかの講演か何かで、「放任はダメ、小さいうちにしつけをしっかりしておかないと、大きくなって問題を起こす」といわれると、

「やっぱり叱ることも大切よね」

と厳しいお母さんに変わる。子どもは戸惑う。いままで電車のなかで靴を履いたままで後ろ向きに座っても何もいわれなかったのに、いまでは叱られる。わけがわからない。

こういうお母さんと同じような人が、男女を問わず多いのではないか。

こっちがいいと聞けばこっちに走り、やっぱりあっちだといわれれば、あっちを向く、それはよくない、これにしなさいといわれると、そうか、じゃあ変えようと、

あったり乗り換える。これでは自分が疲れるだけではないか。

いったい「自分」はどこへいったのか。一貫性というものがまるでない。

こういう人に相談などもちかけると、どうなるか。

「最近、仕事が煮詰まっていてね。何かいい方法はないかな」

「悩んだときはジョギングすると忘れられるのはやっぱりむずかしいよ」

「あ、そんなことやってみたの?ダメだよ、そんなのじゃ。悩んだときは徹底的に悩むといいよ。もうこれ以上悩めないっていうところまで悩むと、あとは立ち直るしかなくなるって、だれかがいってたよ」

「何だよ、キミがいいっていうからやったのに」

相談者も、回答者も似もの同士だと、振り回し振り回され、の関係ができあがる。

こんな具合に振り回されたとしたら、相談者も相談者だが、相談に応じた人も無責任である。

あなたは、こんな人を頼りにしたいだろうか。

ほんとうに頼りになるのは、一貫性がある人なのではないか。ただ、この「一貫性」という言葉は誤解されやすい。「頑固一徹」ということではない。念のため。

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【どう違うのか、一貫性のある人と思いつきの人】

精神科にはアルコール依存症の患者さんも多くやってくる。そういうときの私の役割は、その人がなぜ酒に依存するようになったのか、心の問題を探り出し、それを解決する方向にもっていき、飲酒をやめさせることになる。やめられそうもなければ、アルコールが嫌いになる薬を処方する。アルコールの害も説く。

ビジネスマン向けの本には、

「酒を大量に飲んでうさ晴らしをしようとするのはおやめなさい」

と書く。酒を飲みながら、ぐちぐち文句をいったり、人に説教を始めるような酔い方をしていても、ほんとうの意味でのストレス発散にはならないし、そういう酔い方をしていても、ほんとうの意味でのストレス発散にはならないし、そういう酔い方をつづけているとアルコール依存症になる危険性も大きいからだ。

一方で、アルコール健康医学協会の会長を仰せつかっている私は、

「酒は百薬の長。大いに楽しく飲みましょう」といっている。

私自身もお酒は大好きだ。お気に入りのとっくりで晩酌をし、一日の疲れを忘れてくつろぐのは長年の習慣である。

「いったいどれが正しいのか。著者は『やめろ』といっているのか、『飲め』といっているのか、どっちなんだ、はっきりしろ」

などといわれても困る。

「やめる必要があるならやめなさい、その必要がなければお飲みなさい、。飲むなら危険な飲み方より、楽しい飲み方のほうがいいでしょう。度を越せば毒になるが、適正な量なら薬になりますよ」

そういっているだけだ。

話の内容に一貫性があれば、それぞれの人の相談にも応じられる。「自分の価値観」「自分の考え」というものの大切さをよく知っているから、それぞれの人の立場も尊重しながらアドバイスをする。だから、「きょうは徹底的に飲んで騒ごう!」という友人には、けっして「精神科医としてはね…」などと説教はしない。

困るのは一貫性がない人だ。

ふらふらぐらぐらして、ひとりの人へのアドバイスがころころ変わり、その場の思いつきやだれかからの受け売りを押しつける。

もしも、こんな精神科やカウンセラーがいたら、世の中大変だ。精神科医やカウンセラーではなくても、こんな人には相談ひとつできないだろう。