ふた昔ぐらい前のテレビのホームドラマには、よく頑固おやじが登場した。
彼らは、まず自説を曲げない。いいものはいい、悪いものは悪い、好きなものは好き、イヤなものはイヤと、一刀両断にする。理由はない。
「つべこべいうな、俺がいいものだといっているんだから、いいものなんだ」というセリフは、頑固おやじの定番だろう。
彼らは、うれしさを表現することも非常に下手である。たとえば、息子や娘たちが父の日に若々しいデザインのネクタイをプレゼントしたとしよう。
「何だけばけばしい。こんなの締められるかい」
などと悪態をつく。しかし陰ではこっそり鏡に向かって、うれしそうな顔をする。こんなぐあいだから、妻への感謝の気持ちなどもとうてい表せない。まあ、昔のドラマのことだから、妻も「おとうさんはそれでいいのいよ」などといっているわけだが。
このような人は、けっして強いわけではない。理由を問われてきちんと説明できるほどのものはなく、照れ屋で、意地を張って、強がりをいって、カラ威張りしている…これが愛すべき頑固おやじの実態なのであろう。
テレビドラマの頑固おやじに限らない。頑固な人というのは、一見、自分を強くもっているように見えて、そのじじつ、意外と「自分がない」のではないのか。
たとえば、一度考えたことを断固曲げようとしない、思い込みを修正しようとしない人が、なぜそうなるのかといえば、過剰な防衛心のせいではないのか。鉄の壁を張り巡らせて、「自分の考え」「自分の感性」を守らないと、崩れてしまいそうになる。その程度の弱い人なのである、ほんとうは…といったら、ミもフタもないのだが、そういう面はあるのではないか。
こうして「弱さ」をひた隠しにするための壁をつくり、かたくなに自分を守る。
これでは対人関係がうまくいかなくなるのは当たり前である。
自説に執着して頑として譲らないのも同じことだ。人の意見をうっかり受け入れてしまうのがコワイ。それで自分の核まで揺るがされそうになるのはもっとコワイ。
枝葉の部分を変えただけで本質まで変わってしまうのは、幹がしっかりしていないからである。頑固な人は、その幹がしっかりしていない人ではないのか。
ほんとうに自分の信念というものを強くもっている人は、臨機応変に七変化しようが八変化しようが、自分が軸としているものは変わらない。枝葉なんてどうでもいいのである。だから柔軟になれる。
電車の座席ひとつ、たまの外食おみやげひとつで、いちいち決意を振りかざしたりしない。「信念が強いふり」をしただけのただの頑固者に軟弱だと批判されたところで、そんなことは知ったことではないのが、強い人だ。
強い人ほど、アタマが柔らかく、人の意見や状況に柔軟に対応できる。好かれる人とは、ほんとうの意味で強い人でもある、ということだ。
無理のない人
【「よく見せよう」とすれば、上げ底を見られる】
最近、私は物忘れがひどい。仕事に行くときに時計を忘れ、入ればまで忘れる。からだも若いときのようにはいうことをきかない。上着を着るときに肩にちょっと無理がかかっても「いててて」となる。
人間関係に関する本を何冊も出しているが、だからといって、私に対して完璧な人間関係を築いていると思われても困る。夫婦げんかなど一万回はしてきたし、他人に腹を立てることだって思われても困る。夫婦げんかなど一万回はしてきたし、他人に腹を立てることだってもちろんある。
人間なんてスキだらけで、恥ずかしい部分が沢山あるものだ。そういう部分を隠そうとする人は多いが、私は隠さない。それどころかわざわざ話のネタにして、みなさんの笑いを誘おうとする。
仕事場に着けば、「きょうは入れ歯を忘れてきちゃってね。まあ、ダイエット中だからいいけど…」といいかげんなところをみせ、夫婦関係がテーマの講演では「けさも出げけにケンカしまして」と白状し、肩が痛ければ「三十肩でして」という。
無理をして、「私は立派な人間でござい」と背伸びしたところでいずれボロは出るし、何より、ご立派ぶる人間ほど嫌味なものはないと思うからだ。
ところが世の中には、「立派な人間でいないと人様から軽蔑される」と思っている人もいるらしい。
そういう人は、「スキを見せまい」「完璧に見せよう」と必死になる。人様に自分の弱点を隠し、自分を誇大広告する。それで狙いどおりに立派に見ればいいが、そう簡単にいくわけもなく、とりつくろってかえって欠点があらわになったり、実際以上に小さい人物に見えてしまったりする。
何とバカバカしく、悲しいことだろうか。軽蔑されまいとして、かえって「上げ底」を見られてバレてしまったときの、みっともなさ、バツの悪さといったらないだろう。
最初から、「ほれ、私は欠点だらけだよ」と見せておけばよかったものを、無理をするからこういう結果になる。
背伸びはやめよう。仮にあなたが立派な人間であったとしても、。
「立派に見えるかもしれないけど、ほんとうはそうじゃないんだよ」
と笑ってスキを見せるほうが、まわりの人は居心地がいいというものだ。
【理想が高い人ほど、不満たらたらになりやすい】
その人は子どものころからの筋金入りの完璧主義者だった。
テストで九十点を取ったときは、同じ点数の子が「やったね、九十点だよ」と無邪気に喜んでいるその横で、「あーあ、あと少しで百点だったのに」としきりに悔しがるような子どもだった。運動会でリレーの選手に選ばれなかったときは、そのぶん、個人の競走で頑張って一等を取ったが、個人でもリレーでも一等がほしかったといって、これまた悔しがるようなところがあった。
何でも完璧で、一番でないと納得できないのである。この人にとっては百点でなければ0点も同然。ふだんの成績が良いからそうなるのだろうという話ではなくて、完璧をめざすことこそが、この人にとってはもっとも大事なことなのだ。
この人はいまも完璧をめざしている。
ちょっとでも手抜きをすると怠け者になった気がするらしく、落ち着かないという。だから仕事はもちろんのこと、遊びでもいい加減なことはしない。ジョギングでもしようものなら、まるで記録にでも挑戦するかのように頑張ってしまう。
「あなたにはほかに得意なことがあるのだから、ひとつぐらい下手でもいいじゃないか」と助言しても、この人は頑張らないと気がすまないのだからしかたがない。ひとつの失敗はすべての失敗に等しいので、こんななぐさめは何の役にも立たない。
これではこの人自身も疲れるだろうが、まわりの人も息が詰まって疲れる。
ただし、完璧をめざすのが悪いといっているのではない。向上心は必要だ。
「悔しいから、できるようになってやろう」「だれにも負けないように頑張ろう」
そう思うことで、高い目標に向かって進むことができる。うまくいかなくてもへらへら笑っているだけの人よりは、わずかでも向上するだろう。
だが、完璧主義には落とし穴もある。
いくら完璧をめざしても、人は、完璧にできるものではない。できないから、心には不満が生じ、グチをいうようになり、不満たらたらになる。
には不満が生じ、グチをいうようになり、不満たらたらになる。
完璧主義者は不平不満屋さんにもなりやすい。
それほど親しくない人たちからは「あの人は向上心があって頑張り屋」という評価を得られるかもしれないが、身近に接している人から見ると「不満たらたらの人」である。
こういう人と楽しい時間は共有できまい。