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button-only@2x 素直によろこぶ人を、人はずっと見ていたい

うれしいときや楽しいときに、素直に表現できること。それもまた好感度に大いに関係があるのではないか。こんな人たちがいた。

ある人同僚が誕生日だというので、コーヒーカップをプレゼントした。すると相手は、お礼もそこそこ能書を垂れ始めた。

「これ、有田焼でしょ。いまは日本の窯でもこういうのをつくっていつのよね。有田はこうで、久谷はああで…」

べちゃべちゃと知識をひけらかすかのようにしゃべりまくるので、その人は思わず、

「だからこれ、気に入ったの、気に入らないの?うれしいの、うれしくないの?」と聞きたくなったそうだ。

しかし相手はその日からさっそく会社で使い始め、他の人に「これ、いいでしょ」と見せたりしているので、どうやらかなり気に入ってはいるのらしいのだが。

またある人は、家に友人数人を呼んで手料理を振る舞った。みんな、「おいしい」「うまいね」といって食べてくれるなかで、ただひとり一度も「おいしい」といわれない人がいた。この男性は、

「これ、何入れたの? ふーん、そうか、それでこういう味になるわけだ。なるほどね」

などとひとり冷静に分析していたのだという。

「口に合わなかったのかな」「まずいのかな」と一瞬、心配したが、これがまったくの取り越し苦労で、彼の皿はほかの人よりも早く空になったというのだから、まずかったはずがない。

まわりを見渡せば似たような人はいるだろう。みんなが盛り上がっているときに、楽しいのかつまらないのかわからない人。退屈しているのかと思いきや、あとで「あのときはおもしろかったね」などという。楽しんでいたのなら、そのときに楽しそうな顔をしてくれ、といいたくもなろう。

うれしい、おいしい、気に入った、楽しい、そういう感情を素直に表現できる人は、好感度も高い。それができない人は、好意的に見れば照れ隠しとも取れるが、みんながみんな好意的に見てくれるわけではない。「どうして素直に喜んでくれないの」と不満を感じる人がいることは事実なのだから、うれしいときは素直に表現しよう。人は、だれかのうれしそうな表情をみているのが好きなのである。

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【目からうろこが落ちる】人は、気持ちがいつも新しい

自分がしてもらってうれしいことを、人にもしてあげよう…というのが信条の人がいる。まあ…ケチをつけるつもりはないが、これには落とし穴もあることを書く。

ある人の友人が手術のために入院したときのことだ。彼女の性格としては、こういうときは、もちろん手術が終わって一段落ついてからではあるが、とにかく「見舞いに」に誘ったが、意外にも、「行こうかどうしようか迷っている」という。

友人の返事はこうだった。

「行けば喜ぶかもしれないけど、彼、ふだんものすごく忙しい人だよ。入院したときぐらい、ひとりでのんびりしたいと思っているかもしれないよ」

この人は「そういう考え方もあったのか」と、目からうろこが落ちる思いだったという。

見舞いに来てもらえばだれでも喜ぶものだと考えていて、そうではない場合があるかもしれないことには思いが至らなかったのである。

そういえば入院した友人は、このところ、ろくに休暇も取っていない。家族が多いから、家に帰っても落ち着いて本も読めないといっていた。確かに、静かな環境でのんびりできるのは病院ぐらいしかない人なのだ。

結局ふたりは友人が退院してから会ったが、友人は「入院はいい休養になった」といったそうである。

もし、「私だったら賑(にぎ)やかなほうがうれしいから」と主張して、友人を何人も連れて病院に押しかけていたら、どうだったろう? 彼女の想像力も「好かれる人」の要素のひとつだが、友人の柔軟性もかなり好感度は高い。

「そういえば、そういう考え方もあるね」

自分の価値観に固執せずにさらりと受け入れることができる人は、その相手とだけではなく、いろいろな人間関係を上手にやっていける人だ。

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【人のつらさ、ほんとうにわかりますか】

「人の気持ちを察しなさい」

それが人間関係をうまく築くために必要なことだ……あなたもいわれたことがあるに違いない。人間関係の本は山ほど出ているが、その多くにも書かれていることだ。相手の気持ちを察しなさい、その人のつらさを想像しなさい、自分がもし同じ立場に立たされたらどうなるか考えてごらんなさい…。

なるほど正論である。足を踏まれていたがっている人に、

「私は踏まれたことがないからわからない。わからないから関係ない」

では相手の心はずたずたになってしまう。

「わかるよ痛いでしょう。いっしょに痛みを取り除きましょう」

といえば、相手は「この先どうなることか」という不安から、ひとまず解放される。あなたのことを救世主だとは思わないまでも、理解してもらえたということでほっとするだろう。

しかし、人の心の痛みがほんとうにわかるものなのだろうか。

踏まれているのはあなたではない人なのだ。痛いだろうことはわかるが、それがどのぐらいの痛さなのか、ずきずき痛いのかじーんとしびれるように痛いのか、そこまではとうていわからない。

「人の気持ちは、推測したり、わかったつもりになったりはできるが、ほんとうのところはよくわからない」

それが正しいのではないか。

わかったと思い込んでしまうのは、不遜(ふそん)というものだ。しかし思い込みの強い人は、わかったと思い込んでしまう。そればかりか、「あなたなんかに、いったい何がわかったというのか」と反撃されると、「人が慰めているのに、何を失礼な」と怒りだす。思い上がり以外の何ものでもない。

わかったつもりになるなど、ほんとのやさしさではないだろう。結局、私たちは、「私にはあなたの痛みがすべてわかるわけではないけれど、わかろうとする気持ちはある」ということでしか、誠意を示せない。

謙虚にこう考えていたほうが、「わかったつもりになっている」人よりも、はるかに人の痛みやつらさを自分のものとして考えられると思うのだが、どうだろう。