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button-only@2x その「もっともっと」に、心が疲れてゆく

「世の中にこんなにうまい食べ物があったのか」と感動した経験が私にはある。現代が「飽食の時代」というなら、、当時は「貧食の時代」だ。

戦争中、軍医として従軍していたときのことだ。軍隊には日本全国からいろいろな職業の人が集まってきているが、そのなかに豆腐屋さんがいて、配給主食の大豆で豆腐をつくってくれた。食糧が日々とぼしくなっていき、芋のツルだろうが何だろうが、「食べられれば何でもよし」としなければならなかったころ、その豆腐の何とおいしかったことか。つるんと口に入ったときの感覚は、いまだに、忘れられない。

いまでは豆腐ひとつとっても、やれ、どこそこの上質な大豆を使いました、やれ、どこそこの天然水でつくりました……と、これでもかとばかりにおいしいものが店にあふれている。しかし、私のあのときほどの感動を、いまの人たちは経験したことがあるだろうか。世にもうまい豆腐は、「うまいものが食べたい」という欲求を満たせるはずがないと思っていたからこそ味わえたと思うのだが。

欲求や願望をいつも百パーセント満たしたいという、「もっともっと気分」が強い人は、現実には満たされることがないだけに、そのぶん不満も多くなる。完璧主義者が不平不満になりやすいのと同じ理由だ。

逆に、欲望に「腹八分目」でにこにこしていられる人は、はたで見ていても気分がよい。

「私は人から「欲がない」」といわれます。欲がないことは悪いことでしょうか」

という人がいるが、別に悪いことではない。もちろん野心が成功の源になることは確かだが、欲がないならないで、それもまたよし。「もっともっと」と欲望をギラギラさせている人にはない、穏やかで平和な空気がその人のまわりには漂う。これがいい。何よりも、不平不満が少ないというのは幸福ではないか。

軍隊で豆腐屋の兵隊さんがつくってくれた豆腐を食べて、もしだれかが、「うちの近所の豆腐はうまかったな。ああ、あの豆腐を腹一杯食いたい。あの豆腐はほんとうにうまかった」などといい出したら、あの場の空気はどうなったことだろう。

あれもこれも求めてもすべて入れるわけじゃないし、欲望の完璧な達成など求めつづけてもきりがない。「これだけ手に入ればじゅうぶん幸せ」と感じることができたとき、人は、自分だけではなく、まわりの人たちをも穏やかな気持ちにさせることができるのではないだろうか。

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【自分に厳しい人は、まわりの人を見逃さない】

自分に厳しい人がいる。

彼の話ぶりからうかがえるのは、いつも「こうするべき」「これをしてはならなぬ

」と自分を律している生き方だ。人間だからたまに怠けたくなることもあるが、怠けたいと思った弱い心も、これまた厳しくいさめる。彼にとって価値あることとは、高みをめざして常に努力すること、怠け心に鞭打って何事にも勤勉に打ち込むことであり、「人間はそう生きるべき」と信じ込んでいるふしもある。

「疲れませんか」といてみたら、

「疲れますよ。でも疲れるからといって、いい加減にしていいわけではない」

と答える

疲れるならちょっと休んで、たまには肩の力を抜けばいい。そう思うのは他人だからであって、彼自身は「こうあるべき」と信じ込んでいるのだからやめられない。

こういう人はうつ病になりやすい。適当に力を抜きつつ生きている人なら、「まあ、いいか。しかたがない」ですませられるような小さな失敗でも。自分に厳しい人は大きな挫折感を味わってしまうからだ。

ことは、こと人だけの問題に止(とど)まらない。

自分に厳しい人というのは、人にも厳しくなる傾向が強いのである。彼もそのひとりで、自分の能力と相談しながら「ま、人生こんなもんでしょう」と、のんびりと肩をの力を抜いて生きている人が、どうしようもなくいい加減な人間に見えてしまうそうだ。社会規範やモラルからはずれた人のことも、気に触ってしかたがない。

まわりに対しても厳しい目を向け、「見逃す」ことができない。これでは、まわりの人はおちおち息抜きもできないだろう。

そもそも自分に厳しい人というのは、そこにいるだけでも緊張感を生み出す。好意的にいえば、「空気がピリッと引き締まる」ことにもなるが、他人はそう好意的にばかりは見てくれない。そこへもってきて、この人の場合、さらに追い打ちをかけるようにまわりにも厳しい目を向け、ますます緊張させるのだ。身近な存在であればあるほど、監視に目が光っているような気がして息が詰まる。この人自身もかなり無理のある生き方をしているのだが、まわりの人にも無理な緊張感を強いていることになる。

「自分に他人にも厳しい人」は、りっぱな人には違いないが、まわりの人をリラックスさせない人でもあり、つい、私たちは身を引いてしまうのである。

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【まわりの人のためにも、自分を甘やかしてやろう】

では、「自分には厳しいが、人には寛容」という人はどんな人なのか。

理想的ではあるが、人間、理想どおりに生きられるものではない。たいいち、同じものごとで人には寛容にして、自分だけに厳しくしていたら、自分がワリを食うことにもなる。しょっちゅう割を食ってもなお、

「いいのよ、いいのよ。あなたは好きなようにしてちょうだい。私がそのぶんいくらでも頑張るから」

と、心からそう思うことのできる人は、天使のような人だろう。

つまり、私たちが「自分には厳しいが人には寛容」を実践しようとすれば、ひじょうに無理をし生き方になるのではないか。心の疲れる生き方だろう。

こんな状況を思い浮かべてみよう。だれかが職場を抜け出して、喫茶店でお茶を飲んでいたとする。それほど忙しくない日で、さっさと仕事を片付けるに越したことはないが、適当に息抜きしても問題はないという日である。さて、あなたはどう思うだろうか。

「何てやつだ。会社を何だと思っているんだ」

と腹を立て、その人の批判を近くの同僚にぶちまける人がいる。

「まあ大目に見てやろう。でも私は絶対にそんなことはしないぞ」これは、自分に厳しく、人に寛容な人。だが、

「きょうは忙しくないんだから、気分転換にちょっとぐらいはいいよね。私もあとで外回りのついでにコーヒーでちょこっと飲んでこよう」

と考える人もいる。

だれもがもっとも気さくにつきあえる人かといえば、これはもう、間違いなく最後の人だろう。人に寛容で、ときと場合に応じて「自分を甘やかしてやる」ことができる人だ。「自分にも人にも厳しい」のはお互いに応じて「自分を甘やかしてやる」ことができる人だ。「自分にも人にも厳しい」のは、お互い息が詰まる。「自分に甘いが、人に厳しい」のは単なる身勝手だ。「自分に厳しく、人に甘い」は、自分が我慢をしいられるだけだろう。

ならば「自分にはほどよく甘くてほどよく厳しく、人に対しては寛容」がいちばんだ。肩の力を抜いたあなたの周囲には、柔らかな空気が流れる。相手もあなたにやたらと批判される心配がなくなる。お互いに無理がないではないか。

過ぎた厳しさには、いいことはない。自分のためにも、まわりの人たちのためにも、「たまには力まずにいこう」という気持ちがいい。