【仕事と家庭との割合は相手次第】
人生の伴侶というように、結婚する相手が自分の人生にとって極めて重要であることは異論のないところでしょう。ただ、その重要さはかつてとは少し性格が変わっています。
現代の日本社会のように、女性も社会で働こうと思えばさまざまなチャンスがある場合、昔のように女性が家庭や子育てだけに縛られるということはないのです。
かつて、女性が男性の支配下におかれていたのは、女性がその過程から自立する道もチャンスもなかったことが大きかったためです。今は、嫌いになった男性と、それ以上いっしょに暮らす必要が無いというわけです。
それでも、もし、結婚で失敗を犯すと、その調整には大変な労力をともない、いわばとてつもない無駄な時間を費やすことになりますから、まずもって結婚相手の選択を誤らないようにすることが第一でしょう。
離婚経験者が口をそろえていうのは、「結婚するのは簡単だけど、離婚するのには大変なエネルギーが必要になる」ということです。これは、当然のことで、二人の気持ちがひとつになるベクトルの矢印は明確ですが、それを、無理に二つに引き剥がす作業は大変に決まっています。
とくに、その間に子どもがいると、エネルギーは三倍から五倍は必要になります。子どもにとってはもちろん、親にとってもとてもつらく苦しく、そして得る物のない経験となります。
人間社会が成立している基本は、相互の信頼ですから、離婚は、それが破たんしたということを、場合によっては裁判で争うわけです。ここには、まったく人として自分に資する物、得る物はありません。
あるのは相互の不信と懐疑、経済的な要求と、相手を責める気持ちだけでしょう。ここまで、否定的な関係性になって、場合によっては裁判までするようになるのは、夫婦の関係くらいでしょう。
つまり、結婚相手を誤ると、そういうとんでもなく無駄な時間を費やすことになりかねないということです。
結婚相手で人生は半分決まるとしたら、結婚前にどういう相手を選ぶかという基準をどう考えるかということが最重要課題となります。
【子どもに高望みはしない】
— 子どもの望みを理解しているか? —
自分の人生を顧みる頃に、子どもが世の中に出ていくので、世の親というものは、とかく子どもに期待するあまり、「こうすればいい」「他の選択肢があるんじゃないか」などといろいろと言いがちです。
もちろん、人生の先輩でもあり、多くの場合、出資者でもある親は、意見を言う権利を持っているし、間違っていると思ったら、どうあってもその方向性を許さないということもあり得るでしょう。
そこで問題になるのは、人生に対する価値観と、その人の子どもの能力に対する理解ということになります。
子どもが「子ども」である間の価値観は、親であるあなたがどれだけ自分の価値観を伝えられたかということにかかっています。子どもが「おとな」になったら、もう親の意見などは関係なくなるのです。
それを理解した上で、いったい、子どもが何を望んでいて、自分が子どもに何を望んだらいいのかということを考えるべきでしょう。
そういう対話なしに、「君は、お父さんとは違って、きちんとした一流会社に入って欲しい」などと言っても、まったく説得力がないばかりか、最大規模の反発を食らうことになるでしょう。
なぜなら、そういう言葉は、本人の意志をまったく無視しているからです。
言うまでもありませんが、子どもは親の付属物ではありません。ましてや、親が描いたとおりの人生を生きるなどということを受け入れるはずもないのです。
たとえば、子どもが芸術の方面に進みたいから、自立してアパートを借りるとか、当面はフリーターで生活して、やりたいことを探す、と言ったとしましょう。
いずれにしても、その時点で子どもが成人していれば、それは本人の勝手なのです。
そこで、「大学までいかせたのに!」というフレーズは、言いっこなしというものです。
正直言えば本当は言いたいところですが。
子どもには多くのものを望みがちです。その最たるものは、自分よりもっと社会的に飛躍して欲しいということでしょう。けれども、それにはいろいろなアプローチがあります。
自分たちの世代の常識にとらわれず、まあ、好きにやらせてみましょう。
【子どもを夫婦のだしに使わない】
— どこまでいっても家族は大切だ —
家族がいる人は、家族のありがたさに気が付かない傾向があります。これは、人の常ともいうべきもので、身近にあるもののありがたさはわからないものなのです。
夫婦は最初は熱々ですが、そのうちに相手のあらが見えてくるのは当然ですし、子どもに至っては、ハイハイする前からつきあっているのですから、生意気なことを言われるとカチンときてしまうものです。
まあ、それだけ家族は一体なのですが、それを一体感というよりわずらわしさと感じてしまう人が結構います。
そういう人に、「家族は一体感が大切ですよ」と言っても、まったく逆効果ですから、「では、しばらく離れてみたら」と提言したりしますが、本当は、家族の中で家族の間の矛盾は解消されるべきなのです。
たとえば、夫婦関係に関して、「子はかすがい」と、よく言われます。確かによく接する現実はそうなのです。残念なことに、どの夫婦も、子どもがいなければとっくに別れていますよ、と言います。
それはちょっと違うのではと感じます。愛し合った夫婦なのだから、家庭内の問題くらい、子どもをだしにしなくても乗り越えなければならないのではないかと思います。
人間も、大きな意味では自然の中で生きている生物ですから、子孫を残すことを目的として生きています。それなのに、子どもを放り出して、離婚するなどということになったら、人類の存続に関わります。
反対に、子どもの将来のために我慢しています。というのも、やはり子どもをだしにしているという感じがあります。はっきり言って、両親が愛し合っているかいないか子どもには関係ないのです。なんでもいいから、しっかり成人まで面倒を見て欲しいのです。これが子どもの要求でしょう。
できれば、両親が本当に仲良く面倒を見て欲しいものですが、もし諸般の事情でできなければ、どちらか一方でもいいから、とにかくバックアップして欲しいというのが子どもからの率直なメッセージです。
ともあれ、両親が子どもの進学などを理由に無理に和解することはおかしなことだし、子どもだけをきずなに夫婦でいるということも不自然なことでしょう。