Pocket

【笑いたくなるほど、嫌われていく、「ほれ見たか」のひとこと】

その人は忠告好きの友人に悩まされている。よけいなお世話だから、ということもあるが、もっと大きな理由がある。

ある日のふたりのやり取りはこんな感じだった。

「次の夏休み、どうしようか考えているのよ。旅行に行こうか、家でののんびりしようか、実家に帰ろうか」

「どこへ行っても夏は混んでいるでしょ。近場で適当に過ごしたほうがいいわよ」

「それもいえるわね。まあ、休みまでにはまだあるし、考えてみるわ」その人は結局、旅行に行った。ところが、旅先でカメラが壊れ、おなかも壊した。

すると友人はいうのである。

「だからいったじゃない。旅行はやめたほうがいいって」

友人の忠告に従わずに行動して失敗したときは、いつもこうだ。「ほれ見たことか」という反応が返ってくる。

おなかを壊したからといって友人に助けを求めたわけでも迷惑をかけたわけでもない。カメラが壊れたのは使い方の問題で、旅行に行ったからではない。

そもそも友人は「混んでいるからやめろ」といったのだ。おなかを壊す、カメラを壊す、と予言したわけではあるまい。もし友人の忠告どおりに近場で適当に遊んでいてケガでもしたら、友人が責任を取ってくれるつもりか…その人は、重要なことで迷っているときには、絶対に友人にはしゃべらないのだという。話せば忠告され、その忠告に従わなければ、あとで何かにつけて、

「だからいったじゃないの」

となる。

口うるさく忠告する人は、えてして無責任である。その場の空気と思いつきで忠告しているケースも多い。

頼りになる人とは、アドバイスに反したことをしてこちらが災難にあっても、いっしょにに考えてくれる人である。あるいはこちらが「あなたのアドバイスに従っていればよかった」と後悔しているときに、「あの道を選んでも結果はどうなったかわからない。それよりっ気持ちを切り替えましょう」と、なぐさめの言葉をかけてくれるような人である。

「ほれ見たことか」「だからいったじゃないか」。それをいうたびに、あなたの好感度は、ぐんぐん下がっていく。慎みたいものだ。

【頼りになるのは、現実的対処を示せる人】

身近に頼りになる人がいれば、何かと心強いものだ。

職場でだれかが大失敗したとする。取引先の人を怒らせてしまった、コンピューターを操作していて大事なデータを消した…。何でもいいのだが、とにかくこの人は「ああ、大変、どうしよう」とパニックになっている。

そんなとき、そばに冷静に対応してくれる人がいれば安心できる。

「その人は、何といって怒っているの? そうか、じゃあ、その人は最終的にどうしてほしいのだと思う? うーん、だったらこういうふうに謝ってみれば?それでもダメなら、こういうふうにすれば? 代替案はこういうのも考えられるよね」

と、すばやく状況分析をし、いくつかの中から選べるように提案してくれる。

この人も、あれこれ聞かれているうちに、「そうか、そうだわ」と納得し、パニックによって曇っていた視界がすこしづつ開けてくる。何とかなりそうだ…という気持ちにもなれる。あるいは、

「そのデーターはほかのところにも入っていないか、探してみよう。なかったらなかったで、つくり直さなきゃならないけど、これはすぐに必要なもの? そうじゃないんだったら後回し。でも、ほかの人がいつ必要になるか、聞いておかないと。つくり直すんだったら、ほかの仕事を延ばさなくちゃ。何を延ばせる? こっちを最優先してもだいじょうぶ?」

と、仕事の優先順位を決めてくれれば、てきぱきと進めることができる。「どうしよう、困ったな」で時間を無駄にすることがない。

ふだんは落ち着いて物事を考えることができる人でも、トラブルに直面して、どうしたらいいのかわからなくなることはある。

そんなときには客観的な目が必要だ。「自分どうなっているか」ではなく、「現状がどうなっているか」を見てくれる目である。それが、いざというときに頼りになる人で、最高の助っ人だ。

トラブルにさらされたときには、聞き手に回ってくれる人もありがたい。痛みをわかってくれる人もありがたい。いっしょに動いてくれる人もありがたい。

しかし、感情やひとり合点を抑えて冷静にものごとを見ることができることもまた、信頼される条件のひとつと思うのだ。

【甘えさせてくれる人は、いずれ重荷になる】

頼りになる人は、甘えさせてくれる人ではない。

過保護のお母さんを思い浮かべてみよう。子どもがねだったものを「いいわよ、いいわよ」と何でも買ってやり、子どもがけんかをしたと聞けば「おたくの子が悪い。うちの子は悪くない」とばかりに相手の家にねじ込む。学校の先生に注意されたと聞けば、これまた学校に抗議する。危ないことはすべて親がやってやり、子どもには包丁一本ももたせたことがない。転びそうになったら、足もとの石をすかさずどけて転ばないようにしてやる。

子どもはやがて大きくなり、社会に出て荒波にさらされる。

しかし自分で解決する術を学んでこなかった人は、学校で先生に叱られたときのように、親にいいつける。

「部長にこんなことをいわれた。先輩にいじめられた。同僚が仲よくしてくれない」

と。こんどは親も助けられない。目一杯頼らせてしまった結果、頼りにならない親になってしまうのである。

過干渉の親もいる。こちらは、ああしろ、こうしろ、あれはダメ、これもダメと口うるさく命令する。子どもは親の顔色をうかがいながら生きてきたので、大人になって「部長に怒られた」と親にいいつけることはないが、自分で解決できない人間に育ってしまっている点では過保護の親に育てられた子と同じである。かといって怖い親には相談できない。ここでもやはり親は頼りにならない。

こういう人はあちこちにいそうだ。たとえばやたら細かい指示を出す上司がいれば、部下は自分で仕事の段取りを考えなくなる。おおざっぱな人の下についたほうが、案外仕事は早く覚えるものだ。

いざというときほんとうに頼りにになる人というのは、ふだんは甘やかしたり、やかましく口出ししたりはしない。相手が自分で何かをしようとするのを尊重し、見守ってくれる。

黙って見ていられないのは、相手の力を認めていないからだろう。それを相手は、敏感に感じ取る。相手が依存心の強い子どもっぽい人であれば、「破鍋(われなべ)に綴蓋(とじぶた)」式のコンビニになれるだろうが、一人前の大人には失礼な人である。

相手が歩くのを黙って見守り、転んだときだけ手を貸す。大の大人の関係ではそれでいい。それ以上のべたべたした関係は、いずれ重荷になる。

どちらかが一方的に頼る関係も同じだ。頼りになること=甘えられること、ではないのである。