衝動買いをしきりと反省する人は、反省依存症とでも呼びたい人である。
職場で上司に注意されようものなら大変である。「すみません」を繰り返し、「私が悪かったんです」と平伏し、「もういいよ、これから気をつければいいんだから」といわれても、「ほんとうに申しわけありませんでした」。まだつづけるのである。
はじめのころは上司や先輩の評判はよかった。素直で、逆らわず、きちんと謝る。「でも」と反論したり、ぷいっとふくれっ面をする若手の多いなかで、なかなか礼儀正しいじゃないか、と。しかし、いまとなっては重苦しく、上司は、
「すみませんは一回でいいよ」と声も冷たくなる。
この人はまた、ほんのちょっとした不注意から起きたことや、はたからみれば不慮の事故にも等しいこと、相手も同じぐらい不注意だったことにまで、反省の手を緩めない。
たとえば書類をぱらぱら見ながら廊下を歩いていて、向こうから来る人と衝突したときなど、先に謝り、最後まで謝っている。相手もよそ見をしていてやはり不注意だったのだが、こういうやり取りになる。
「あ、ごめんなさい。すみません」
「あ、すみません。だいじょうぶですか」
「ええ、でもすみません、私が前を見ていなかったばっかりに」
「いや、ボクも見ていなかったから」
「いえ、私が悪いんです。ほんとにごめんなさい」
謝り過ぎ、反省し過ぎは、かえって嫌味である。
「こっちのほうが悪いという皮肉か」
と受け取る人だっているだろう。
それに、このような人は、謝ったり自分の非をあげつらうことに専念して、相手への気遣いには欠けるのだ。「だいじょうぶですか」のひとこともなくひたすら謝るだけである。「ただのおわびマニア」という周囲の声も無理はない。
反省は大事だ。それは子どもでも知っている。だが、反省も度を越して口に出せば、感じが悪い。
自分の非ばかりに目がいく人の場合はさらに、相手の気持ちや現実が見えていないというオマケもつくのである、
やたらと謝ればいいというものでもないようだ。
【人を責めるな、自分も責めるな】
「郵便ポストが赤いのもみんなあなたが悪いのよ」
こんなセリフがあるが、先述の、店員に苦情をいう人に通ずる感覚だろう。何か問題が起きたときには他者のせいにする人で、そうやって、自分の心を安定させようとする。
あのときに欲しくてたまらなかったのだから、いま安くなったからといって店に文句をいう筋合いではないのだが、「教えてくれなかった店の人が悪い」と思っている。買えといわれて買ったのではない、ほかならぬ自分の意志で買ったということが、すっかり頭から抜けている。
こういう考え方を「他罰(たばつ)傾向」という。自分のことは棚に上げて、人の非を追求する。逆に、前述の人のように、実際に自分が悪くても悪くなくても、とにかく「私に非がある」と考えてしまうのが「自罰(じばつ)傾向」だ。
自罰傾向が強い人の場合は相手は戸惑ってしまうが、他罰傾向が強い人の場合は、相手は攻撃の対象になるわけだから、戸惑うどころではなくなるだろう。
他罰傾向とは違うが、人ではない何ものかのせいにする人もいる。不運のせいにしたり、人生が思いどおりにいかないのを社会のせいにしたり、だ。
遅刻したのは雨のせい、料理がおいしくつくれなかったのは材料が悪いせい、人の足を踏んだのは犬がほえたせい…。
こういう人にかかっては、悪者はそこらじゅうにいる。悪者にする対象には事欠かないのだから、まわりの人もおちおちしてはいられない。
これまた現実が見えていない人であるから、立ち直りは遅い。いつまでも「あいつが悪い、犬が悪い、雨が悪い」とグチばかりをいっている。
やはり感じが悪いではないか。
好かれる人は、人のせいにしないし、社会や天気に責任をなすりつけたりもしない。雨が降ったら車が渋滞するだろう、タクシーもなかなかつかまらないだろう…と判断して早めに家を出るという当たり前の行動ができる。
現実をよく見ることができれば、むやみに人のせいにしないばかりでなく、自分を責めてひどく落ち込んだり、いつまでもうじうじくよくよすることもない。流れを見てさっさと次の展開を考えることができる。どん底からの脱出もそれだけ早いではないか。
人のせいにするのはやめよう。自分を責めることもやめよう。ねちねち文句をたれたりしないこと。いつも気持ちがすっきりしているのがいい。
【自分の不幸をいう人は、人の気持ちがわからない】
不幸の自慢屋さんという人がいる。
恋人とのトラブル、仕事の悩み、からだの不調、何でもかんでも「聞いて聞いて、私ってこんなに不幸、こんなに不運」とばかりにしゃべる。
「最近、胃の調子が悪くて。きのうもきょうもろくなもの食べていないのよ」といえば、「あら二日間?」と話を引き取り、何を言い出すのかと思えば、
「私なんか一週間も食べられないこと、あったわよ」
相手が「それは大変だったわね」と同情すれば待ってましたと次の不幸自慢が始まる
「いまだって腰が痛いし、肩こりもひどいし。おなかにじんましんもできているんだから」さんざんぼやいた挙句に、
「あなたなんて、まだマシよ」と、くる。人が落ち込んでいるときも、
「そのぐらいのことで、何をくよくよしているのよ」
で始まり、激励するかと思いきや、
「私なんかね…」
と、またしても不幸の自慢になる。
最近では、まわりの人は、「ああ、また始まった」と右の耳から左の耳へと聞き流しているそうである。
この人は、人の不幸など聞く耳をもたない。私の不幸に比べれば大したことないと思っている。
それで自分がいかに大変か、いかにかわいそうかをアピールする。
こうなると、うっかり悩みも打ち明けられないではないか。頭が痛くて医者に行ったら、「このぐらいのことで痛がるんじゃない。私は胃潰瘍もやったし車にもはねられた」と追い返されるようなものだ。
自分よりも大きな問題をあれこれ挙げる相手を見て、「この人はこんなに大変な目に遭ったんだ。私の悩みなんて小さいな」と慰めになる場合もあるだろうが、こっちの痛みも少しは知ってほしいのである。こんな人には、心を開いて話をすることはできない。たびたびの不幸話も「狼がきた」の少年と同じようになってしまう。
人の痛みを自分の痛みより軽く見る人は、結局はだれからも自分の痛みをわかってもらえなくなる。痛みの感じ方に、私より軽いも重いもない。