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button-only@2x こんな工夫で、あらゆる場が「脳感」を磨く

 

アルファ波を重視する人の、脳を活性化させる方法には、おもしろいものがけっこうある。まず入浴時の利用だ。

湯ぶねにつかってくつろいでいて、取り組んでいた課題に対する答が浮かぶことがある。

そういう望ましい状態に脳をもっていくには、鼻歌の一つも歌えというのである。鼻唄を歌うようなとき、脳はアルファー波が大量に出る状態になってリラックスしている。思いがけないヒントが生まれやすい瞬間だ。

風呂でボーっとしている状態ではスローアルファー波が、ちょっと考えごとをしている時はミッドアルファー波が出ているというから、湯船につかって深呼吸をしながら目を閉じた状態は、かなり、ひらめきが得られやすいに違いない。

仕事や人間関係、都会の雑踏から離れて、自然の静けさの中でゆっくりと温泉につかると、この効果はさらに高まるだろう。

せっかく脳がリラックスするこういう入浴時、バスルームに悩みを持ち込んではいけない。くよくよ考えていると、脳がアルファー波状態になりにくいからだ。

「なんとかなるさ」と好きなメロディを口ずさみ、ゆっくりと入浴していれば、新たな活路が見えてくるのだ。

これが、鼻歌をうたう効用らしいのである。

    喧噪の中でも集中できる人の「五感」

また、パチンコ店をアルファー波状態に入る場にする方法もあるというから驚く。

あれほどうるさく、タバコの煙で汚染された環境もないと思うのだが、パチンコに興じている人は、騒音は気になっていない。ひたすらパチンコに集中している。しかも非常に単純なゲームだから、よけいな思考は必要ない。

単純作業に集中した状態は、脳波からみると、アルファー波状態になっているのだという。

今かかえている問題について、とりとめもなく考えながら、目は盤面を追っている。そういう時、「あ、そうだった」という解決策がひらめきやすいわけである。

ただし、ギャンブルとしてのパチンコにのめり込んでは、この効果はない。勝ち負けにこだわると、玉が入らないとかッとする。

このときの脳波はベータ波になっているというから、アルファー波どころではなくなる。

体とアルファー波の関係を生かして脳を活性化させる方法も、さまざまに考えられているようだ。

スポーツがその典型である。

この点、最近の選手たちは優秀だ。少し前までは、「がんばります」「勝ちます」が、選手の決まり文句だった。このごろは「自分が楽しみたいと思います」という人が多い。

この、「好きだ」「楽しい」という基準でスポーツをする時、脳はアルファー波を出す状態になっているのだという。

また、集中したときや、技が決まって「やった!」とガッツポーズを決めているときなども、アルファーは波が出ているようである。

    努力は、ここにつぎ込めばムダがない

いけないのは、「ねばならい」的な姿勢である。

根性主義で、苦行のようにスポーツをやっていては、脳はアルファは波状態になりにくい。国や地域、職場の代表だからぜひとも勝たねばと、過度に緊張している場合も同様である。

脳がアルファ波状態にならないと、技の上達へのヒントが出てこないし、勝負のさなかのとっさの判断が鈍る。能力が向上しにくく、それでますますスポーツが苦痛になる。

悪循環の繰り返しである。

前に、マラソンランナーの脳の快感にふれたが、いわゆるナチュラルハイのときも脳はアルファ波状態になっているとされる。

これらはアルファ波になっているとされる。

これらはアルファ波をうまく使ってスポーツ能力を引き出す方法だが、発想を変えるために運動するやり方もあるらしい。

たとえば山登りである。引き返したくなるほどの思いを何度も味わいながら、ようやく頂上に立った瞬間、至福の恍惚感、爽快感に満たされる。このとき頭は非常に冴え切って、気分は高揚する。

地上で悶々と考え込んだ問題に対しても、上から見下ろすような大きな気持ちで頓悟(とんご)することがあるらしい。つまり、自分の積極的な意思で、目標に向かって苦労し、その結果、ゴールにたどり着いたとき、脳はアルファ波状態になるというわけだ。

こういう訓練を意識的に行うことで、発想そのものが変化するのであろう。

アルファー波を重視する人は、瞑想にふけることが多いと聞く。瞑想は、ヨガや禅はもちろん、キリスト教やイスラム教にも取り入れられている伝統的な方法だから、試みてみるにこしたことはないだろう。

だが、どうも習熟するまではとっつきにくいのではないだろうか。

   坐って半眼になるだけが瞑想ではない

瞑想に近い状態に入る方法に、毛筆書きがある。

硯(すずり)と墨と筆を常備している方は少ないだろうが、何かのおりに使った筆ペンくらいは引き出しにあるだろう。背筋を伸ばし、肘(ひじ)を机から浮かして、毛筆を操ってみるといい。引き出しにあるだろう。背筋を伸ばし、肘(ひじ)を机から浮かして、毛筆を操ってみるといい。

文字が、自分の精神状態をそのまま反映することに驚くはずだ。

毛筆書きは、自分の心と向き合いながら筆先に精神を集中する、動的な瞑想といえるだろう。これなら、眉間(みけん)にしわをよせて集中力を喚起させようとしなくてもよい。自然に脳をアルファ波の状態に入らせることができる。

賀状や暑中見舞いの、本文はパソコンでつくるにしても、表書きは毛筆にしてみたらどうだろう。凝る人は写経などもいいかもしれない。

脳はだれにも平等に与えられた最高の財産である。使っても目減りしないどころか、使い方しだいで無限の力を発揮する。

脳のメカニズムを正しく知ったうえで、眠れる力を深く掘っていただきたい。

  広大な未開発領域に「いいタネ」をまく

エミール・クーエという人が、こんなことを言っている。幅30センチ・長さ10メートルの厚板を地上に置き、その上を歩くことはだれでも簡単にできる。ところが、この板を何10メートルの厚板を地上に置けば、ほとんどの人は一メートルも進めないだろう。そればかりか、足を踏み外して落ちる人が続出するに違いない、と。

これは、「落ちるかもしれない」という恐れが生じたためである。

脳が無意識的に、落ちる光景を想像してしまっているわけだ。そうなると、いくら意識的に「落ちないように歩こう」と言い聞かせても、体は無意識のイメージに左右されてしまう。

クーエは自己暗示法の創始者とされるが、「想像力の意志が争っているときは、勝負はつねに想像力のほうである」とも言っている

これは暗示の原理だといってよいであろう。

人間の心は、氷山の一角にすぎない「意識」と、海面下に隠された巨大な「無意識」の二重構造になっている。この無意識に働きかけ、秘められた能力を引き出そうとするのが暗示である。

    なぜ想像力は意志を上回るのか

脳と心の研究は端緒についたばかりだから、意識と無意識が脳の構造にどう対応しているかは軽々にいえない。しかし、意識が理性的なのに対し、無意識は本能的であることからも、後者の力が大きいことは想像できよう。

前に触れたように、脳には「やる気の神経」といえるA系列の神経が、脳幹から小脳、大脳皮質を結んでいる。

たとえばA6神経は、目覚めて行動するときアミンの一種カテコールアミンを出して活動を起こす。動物的な攻撃性を引き出す「怒りのホルモン」ノルアドレナリンは、このカテコールアミンの一種である。また、報酬系といわれるA10神経はドーパミンを分泌して、脳に快感をもたらす。

こうして、視床下部が司る食欲や性欲などの本能が、大脳辺縁系の働きと結びついて意欲となり、さらに前頭葉の力と一緒になって、理性的な行動になるとにされるわけだ。

理性的な脳といえる前頭葉の働きはきわめて重要だが、やる気の基本的な流れは、本能的な脳である視床下部が源なのである。

意識と無意識の力関係を示唆される構造ではあるまいか。

想像力は、無意識の世界に、意志よりも強い影響を及ぼす。たとえば、どんなに「あがるまい」という意志をもっても、「失敗するのではないか、人に笑われるのでは」というイメージがあれば無意識に影響し、それが暗示になって体や表情、舌の神経や筋肉をこわばらせ、想像どおりの現実をつくりだしてしまうのである。

「できるはず」「できないかも」という意識同士の葛藤

この暗示をうまく使えば、日常生活に大きなプラスをもたらすことができよう。自律訓練法や催眠療法も暗示の一種とされる。

だが、なまはんかな知識と訓練では危険が伴う場合もあるようだ。

クーエは、もっと簡単な一般暗示を提唱している。

やり方はごく簡単だ。「日に日に、あらゆる面で、私はますますよくなっていく」と言葉に出して念じればよい。

ただし、いざというときつけ焼き刃で唱えても効果は少ない。ふだんから、眠りの前後や入浴中などリラックスした状態で繰り返すのがいい。脳がアルファー波の状態になっているときほど、言葉が暗示となって無意識に届きやすいとされるからだ。

体や脳が緊張しているとき、むやみに「できる!」と言い聞かせると、無意識は逆に「できないかも。きっと失敗する」と想像してしまい、そちらの暗示のほうが強くなりがちなのである。

また、リラックスしていても、あまりに高望みの言葉は、よい暗示とはいい難い。願望が高すぎると、実現が可能だということを無意識が確信できないからである。

だから、大きな目標に近づくには、そこに至るステップを小目的として設定するのが常道といえよう。

たとえば営業部に所属した翌日からいきなりトップに踊り出ることを夢想するよりも、まず三か月で得意先をすべて複数回訪問しようとか、半年以内にこれこれの数字をあげようとか、具体的に考えるほうが能力は伸びやすい。

そういう意味でも一般暗示は、おだやかに心を強くする効果が大きいといえよう。無意識のマイナス暗示を一気に根だやしにする劇薬ではないが、身についてくると、具体的課題に向かうときに自然な自信が生まれ、特別な自信が生まれ、特別な暗示をかける努力は必要なくなってくるようだ。

潜在能力の扉は「強気でゆっくり」と開け

ヒトの脳は、遠大な目標に向かっているとき、もっとも活発に働くようである。食べて寝て生殖活動を行って、というのも「目標」いんは違いあるまい。が、これだけでは動物的な水準だ。脳のごく一部しか使っていないことになる。

自分の限界を一歩か二歩こえたあたりに目標を設定することによって、ヒトだけに与えられた大きな脳は初めて、ふだん使われないあらゆる力を総動員して働きだすことになるのである。

自分の話で恐縮だが、太平洋戦争が終わって復員すると、父茂吉が苦心して建てた病院は全焼していた。ところが金庫だけは中身がぶじである。喜んで仔細(しさい)にみると何と出てきたのは病院建設の借金証文ばかりだった。

これにはがっかりした。日本中が焦土になった時期だから、踏み倒そうと思えばできなかったわけではない。

だが、私は、その借金をすべて返そうと決心した。

いまにしてみれば、この決意がよかったのだ。体も脳もフル回転して、目標の実現をはかることができたのだから。

大きすぎるくらいの目標を立てたときも必要なのは、成功からの逆算といえるかもしれない。

成功の時点や状態から逆算して、どの時点で何をすればいいのか、具体的な小目標をたくさんつくることである。

換言すれば、小さな達成感、ちょっとした成功感覚を、たえず脳に与えるということだ。二十年先をイメージしても脳ははさほど刺激されないが、今日一日のストレスに耐え、しかも目的を達成すれば、脳は快感物質ドーパミンをさらに放出する。活性化した脳は、明日の目的を実現するためのアイデアを提供してくれるわけである。

こういうメカニズムをうまく取り入れたのが、日本の武道や華道、茶道などの段位制ではなかろうか。初段をとったら次は二段、三段と進み、師範となり、ついには達人の域に入ることも不可能ではない。

名人は雲の上の存在だが、そこに至る階段は足元に見えている。やる気を不断に高めるみごとな方式だと思う。

 なぜ小さな目標ほど大きな自己暗示になりやすいのか

こうして成功からの逆算ができれば、目標もおのずから具体的になる。自信がつき、自分に暗示をかけやすくもなろう。

大きな目標をステップに分けて具体化するのは、それじたいが自己暗示の方法だといえるかもしれない。近未来の姿をよりリアルに描くことで、イメージが無意識の領域に刻み込まれる。無意識に植え付けられた想像はは現実化されやすいのである。

脳と心の関係はまだ充分に解明されていない。だが、意識と無意識という心理的な方法を活用すれば、心理の面から脳の力を引き出すことができるだろう。

これをシステム化したのがイメージトレーニングだともいえる。イメージ訓練は、スポーツ選手に積極的に利用されているようだ。