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button-only@2x 自分が望まれる人間になれば望む人がやってくる

【友人を選んでいるか、自分が選ばれているか】

子どものころ学校では「みんなと仲良くしなさい」と言われたはずです。「特定の子と遊びなさい」とは決して言われませんでした。

ところが恐らく家では「友だちは選びなさいね」と言われたのではないでしょうか。

この矛盾する二つの指示を守るために、子どもたちは学校ではみんなと遊び、放課後には特定の友人と遊んでいたと思います。

友人は中学、高校になると限られてきて、数人の親友と言える友人とつきあうようになります。それも、大学進学などでつきあいが薄くなって、最終的には就職先の職場によくつきあう友人ができるか、相変わらず大学時代の友人とつきあうというパターンが多いのではないでしょうか。

そういう自分の友人遍歴を見てくると、恐らく友人の性格などに共通のものが見つかるでしょう。遊び仲間であれば、趣味などが一致する人だし、自分の性格に合わせてくれる人になるはずです。

友人は自分が選んでいるつもりでも、相手から見れば自分が選ばれているわけですから、結局、自分の性格や趣味、目標などが一致するといった一定の条件の人が集まってくることになるのです。

「類は友を呼ぶ」と言いますが、まさに「類」なわけです。ということは、自分のまわりにどうも尊敬できる友人がいない、と感じていたら、残念ですが自分がそういう部分を持っているということも意味します。

まずは、自分自身が「そういう人間」にならなければ、尊敬できる友人も集まってはこないのです。

つきあうことを選択することはできます。今、つきあっている友人との時間に価値がない、と感じているのだったら、限られた人生なのですからそういう無駄な時間はカットするべきでしょう。

だらだらと得るものもないのに飲食やつまらないゴルフにつきあうとか、ドライブで運転手をやらされるなどといったつきあいは、きっぱりと断るべきなのです。

いわば友人のリストラですが、ひとつだけ注意が必要です。それは、相手もそう思っているかもしれない、ということです。

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【自分がいちばん興奮していないか?】

— 怒りっぽい人は大事なことに気づいていない —

家庭でも職場でも、町中でも、怒りっぽい人を見かけます。怒りっぽいのはカルシウム分の摂取が不足しているからだ、などと言われて、カルシウムの健康食品をプレゼントした人もいましたが、あまり効果はなかったようです。

怒るということには、たいていの場合なにかの原因があります。気にくわないことがあって、それが指示通りに、また、思った通りに改善されないことが原因で、感情的になるわけです。ところが家庭の問題でも仕事でも、内部に向かって怒っても解決することはまずありません。

問題は外部にあるからです。それでも怒るのは、そこにそういう空気や役割分担が形成されてしまっていることが考えられます。

たとえば、毎日のように自分の子どもに対して同じ怒り方をするお母さんがいて、子ども毎日同じように泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と言っている家庭がたくさんあります。

これは、問題解決がまったく、毎日進展していないことを意味します。怒る原因にもよりますが、二週間も解決しない問題というのはあまりありません。小さい子どもが粗相(そそう)「間違って大小便をする」をしてしまう、という場合もありますが、それが一か月も改善しないようだったら、そこには他に原因があるはずです。

いずれにしても、一か月も同じように、怒り続けても問題解決にはつながりません。それは、感情的になっているからです。興奮してしまったら判断力が低下します。視野が狭くなり、目の前の失敗だけが目に入り、解決への道が見えなくなってしまうのです。

怒りっぽい人は、自分がそうであることに気づいていない場合がほとんどです。「怒らないでよ」と言っても「怒ってないよ!」というパータンです。

明らかに怒っているのですから認めてあげるべきなのに、その判断もつかなくなっています。これには、子どもへの過剰な叱り方と同様、ビデオに撮影して、冷静なときに本人に見せるという方法も有効です。

怒って判断力を失った自分を客観的に見てはじめてミスに気がつくでしょう。ただし、外部に対しては怒ることも抗議の方法です。注文通りになっていなかったときに、誠意ある対応がなされなければ、適度に怒ることもひとつの選択肢です。

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【たまには連れ合いの仕事をやってみる】

— 相手の大変さを知ることも必要 —

連れ合い=配偶者が昼間、自宅で、買い物先で、または、会社で、外回りで何をしているか、想像したことがあるでしょうか。

思い出して欲しいのですが、連れ合いは、愛し合っていっしょになったはずです。少なくとも、いろいろなことをいっしょに実現することを目指して生活をともにすることを決心したはずなのです。

ところが、何年か経つと、連れ合いが日々どんな思いでいるか、何を望んでいるかといったことに、だれでも無頓着になりがちです。

それは、人生の中での夫婦の位置づけにもよりますが、怠慢というそしりをうけざるを得ないでしょう。相手が何を求めているか、これからどうしていきたいかということはつねに話し合っていかなければならないのです。

あなたは配偶者に対して、必要以上に冷たい態度をとったり、つらくあったことはないでしょうか。もちろんそれでは困るのですが、仕事でのストレスを、家庭で発散してしまうことはあり得ることです。

そういう行き違いを修正するのに効果的なのが、お互いの役割分担を取り換えてみることです。つまり、男性が、洗濯や炊事、家の掃除などを担当し、女性が外に出て仕事をするのです。

これは毎日は無理でしょうから、月に何日かでも構いません。とにかく、相手の仕事なりの作業なりの大変さを知る機会とするわけです。

このシュミレーションで、意外なことを学ぶのは、おもに女性の側かもしれません。

一方で男性は、家庭での煩雑と思われていた家事が、思いのほか充実感があることをも学びます。「苦行」ばかりではないのです。

洗濯をして、それを干して、乾いたら取り込んで、また、買い物をして、料理をして、家族と食事をするという行為は、会社で無味乾燥な仕事をこなしているより、はるかに人間的にも充実感が得られます

連れ合いと、仕事を取り換えてみて、どちらの仕事が大変か、改めて話し合ってみてはいかがでしょうか。

なにしろ、長い人生を共にするパートナーなのですから。