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button-only@2x 「べき」や「常識」は、知らず知らず押しつけている

気心の知れた者同士の宴会では、ものマネ名人が生き生きするという長嶋茂雄なら「え~、ナニナニですね~」。田中角栄なら「まぁ、そのぉ」。竹村健一なら「だいたいやねえ」…ものマネといったら、この人たちが相場ということだが、口癖というのは、じつに人さまざまということだ。おまけに性格やものの見方まで表れてしまうのだから、口癖はコワイ。あなたの口癖は何だろう。ふだん自分がどのような言葉をよく口にするのか、ふり返ってみたことがあるだろうか。わが若い知人の場合はこんな感じだ。

「絶対何々だっては」

「オレはこうするべきだと思うね」

「普通、こうだろ」

断定的なこの手のせりふ、「絶対」「べき」「普通」がやたらに多いのである。これがまわりの人たちには、「何となくおしつけがましい」と映る。

だれかがアニメ映画を観に行ったら子どもばっかりだった…といった次の瞬間、

「当たり前だと、いい年した大人はそんなところへ行かないよ、普通」

彼の頭の中では「大人はいかないのが普通」であっても、この人は大人の友人と連れ立って行って、十分に楽しんできたのだ。そんなことに「普通」も何もないだろう。

また、だれかがフリーター生活を辞めて企業に就職したと聞いたときは、

「人間、絶対に定職に就くべきだもんな」

いったい何を基準にして、そこまでいい切るのか。そう聞きたくなってしまう。

この人が盾にしているの常識というものだろうが、この常識もまたさまざまな価値観の上に成り立っているものだ。

十九世紀、イギリスの商人から中国の清の有力者に血統書つきの犬が贈られたとき、清の有力者はこういう礼状を出したそうだ。

「おいしくいただきました」

イギリスの常識では犬は愛(め)でるもの、当時の中国では高級食材。常識が違うのだから、イギリス人が「犬なんか絶対に食わないよな、普通」といえる筋合いではない。

「絶対」「普通」「べき」が口癖の人は、心のどこかで「オレの常識はみんなの常識」と決めてかかってはいないだろうか。その決めつけが、人には「押しつけがましさ」に感じられるのだ。

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【断れない人こそ、人に押し付ける人になる】

「押しつける人」というのは、どうやら、いつもいつも一方的に押し付けてばかりいるわけではなさそうだ。押しつけもするが、押しつけられればイヤといえない。

そういう人がけっこういるように思えるのだが、どうだろうか。

ノーといえない…とグチをこぼす知人がいる。

「よけいなお世話だと思っても、断れないんですよ。だって、相手は私のためにいってくれているのだから」

というのがその言い分だ。この人はよけいな仕事でも頼まれるとほいほい引き受けてしまい、後で苦労することも多いのだが、それにも、

「相手が大変そうだから、やってあげなくちゃと思って、つい」

根っから、断れない性分なのである。

ならばいつも受け身の立場かというと、そうではなく、この人自身がしばしば人に頼み事を押しつけたり、善意を押しつけたりする。

「ぜひ手伝ってほしいの。ね、お願いします。あなただったらやってくれるわよね」

「これ、いいでしょ。あなたの分も買っておいたからね」

とまあ…こういうふうに、有無をいわさずという感じである。

要するにこの人は、自分が断れないから、人もそう簡単には断らないだろうと思っている。自分が相手のためにいっているのだから、人の善意も断れない。

「私のためにいってくれたことは何でも受け入れる」

は、裏返せば、

「私もあなたのためを思っている。だから断ってくれるな」である。

こういう人同士なら、おそらくうまくいく。私のために、あなたのために、とお互いにべたべたと優しく合って生きていける。

しかしそうでない人にとっては、暑苦しいことこの上ない。だいいち、何でもかんでも受け入れていたら、心の奥底に不満がたまっていく。不満はいずれ相手にも向かう。結局はいい関係を保つことができなくなるのだから、

「ごめんなさい。手伝いたいけれど、無理してやったらかえって足を引っ張りそうだから他の人にあたってみて」

「ありがとう。あなたの気持ちはうれしいけど、もう気を遣わないでね」

などと、気兼ねなくいえる関係を築いていくほうが、よほどいいではないか。

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【目クソ鼻クソを笑えない、顔を洗って出直そう】

アメリカ大リーグの野球を見ていて、いつもお香。フォームはみんな好き勝手、バットをほとんど垂直に立ててゆらゆら揺らしている人がいるかと思えば、お尻を突き出すような格好で打つ人もいる。それでがんがんヒットを飛ばすのだから、「万人にとっての正しいフォームなんて、やっぱりないのだな」とよくわかる。

日本人でも野茂やイチローなどは、「正しいフォーム」こだわる人から見れば、

とんでもなくふしぎなフォームだろう。フォーム改造がまかり通る世界で、よくぞ自分の流儀を通したものだな…とひそかに感服する。

プロ野球に限らず、どこの世界にも「人を矯正したがる人」はいるもので、そういう人は、当然のことながら、うっとうしがられる。

しかし、「簡単に矯正されてしまう人」というのもまた、好感をもたれないと思うのだ。

「そんなやり方じゃ営業成績は上がらない私のやり方を見習え」と上司にいわれて、そのとおりにした。ところが、ちっとも結果がよくならなかった。こういうときには、忠実に従ったのであればあるほど、こう思うのではないか。

「いわれたとおりにしたのに」

上司に成績不振を注意されると、

「でも部長のいうとおりにやったんですよ」

と責任逃れをする。小さい子どもと同じだ。

「お母さんがやれっていったから、やったんだもん。ボクはそういうふうにやりたくなかったのに、お母さんが『こうやりなさい』っていったから、やったんだもん」

お母さんのやり方で失敗したのだから、ボクのせいじゃないもん、というわけである。

こういう人は、自分のやり方で失敗するのがコワイ。だから自分を引っ込める。でなければ、もともと自分のやり方など、何も考えていない人だ。いずれにしても失敗したら人のせいにできるので、楽ちんだ。

こういう人にとっては、矯正する人は便利な存在なのだが、それでもやはり文句をいうのだから、こっけいである。

「正しさ」を押しつけること、それを自己保身のために受け入れること、傍(はた)からみればどっちもどっちだ。「あの部長、自分のやり方ばっかり強要して」と文句をたれつつ、自分のやり方を工夫しようとしない人は、目クソ鼻クソを笑っているおゆなものである。顔を洗って出直したほうがいいだろう。