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button-only@2x 善意の「わんこそば」は、もう食べきれない

ときとして「過剰な善意の押しつけ魔」と化す人がいて、この人同僚はほとほと困り果てている。こんなことがあったそうだ。

肩こりが日々ひどくなることに悩まされていた女性が、「その手のこと」に詳しい先輩の女性に「何かいいものないかな」と聞いてみた。すると、「あるある、いいもの知ってるわよー」と、妙に嬉々(きき)として答えた先輩は、翌日さっそく「ナントカ鍼(ばり)」をもってきてくれた。

絆創膏(ばんそうこう)についた小さな鍼(はり)で、これをこったところに貼ると楽になるというのである。何日間貼りなさい、こういうふうに貼りなさい、どこそこに何枚ね…と、注釈も細かかったが、ありがたく受け止めた。おすすめ地獄が始まるとは露(つゆ)知らずに、だ。

それ以来、先輩の肩こり治療指南が始まった。いっしょに昼食にいけば、「あ、ビタミンAを取らなきゃダメ。疲労物質が残っちゃうから」

とオーダーに口出しする。次の休日にテニスに行くと話せば、

「テニスなんかより水泳のほうが絶対いいわよ。水泳にしなさいよ、水泳に」ナントカ鍼の絆創膏のあとがかゆいといえば、

「じゃあ、あなたにはこっちのほうがいいかもね」

といって、ツボ押し棒やら、入浴剤やら、またしてもあれこれすすめる。「はい、次」「はい、次」と、わんこそばのようである。

だんだん彼女はうっとうしくなってきたが、「もういいわ」というにいえなくなってしまい、どうやって断ったらいいものか思案に暮れているという次第である。

「善意」というのは「過剰なおすすめ魔」にもなる。

先輩の女性には「親切にすれば好かれるだろう」といった打算はない。それはそれでいいが、これは、相手がどう受け止めるかをまるで考えていないということでもあろう。

あなたの「いいもの」と私の「いいもの」は、たまたま同じ場合もあるが、違う場合も沢山ある。その当たり前のことがわかっていない人には、「押しつけている」という自覚はない。だから相手にけむたがられて、「何で?どうして?こんなに親切にしているのに…」と戸惑ったり悩んだりもする。

「ありがたい」と「ありがた迷惑」の分岐点になるのは、「私とあなたは違う」ということがわかっているかどうか、なのではないか。結局のところ、違いを認めていないから、善意の押しつけ魔と化すのではないだろうか。

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【聞いてくれる人には安らぎ、忠告する人には疲れる】

ある人から聞いた話である。

落ち込んだり、悩んだり、不愉快なことがあったりしたとき、この人はいつもAさんという親友に話を聞いてもらうという。

これは、、ほんとうに「聞いてもらう」のだ。アドバイスをしてもらったりなぐさめてもらうわけではない。グチがあったらグチをこぼし、腹が立つことがあったら心に閉じ込めていた怒りを口に出し、とにかく、しゃべりたいだけ、しゃべる。

そういうときAさんは、「ああ、そりゃ、疲れるわ」とか「それは頭に来るよね」とか合の手を入れながら聞いているだけだ。ああせい、こうせい、とよけいなことは一切いわない。下手な同情もしない。聞き手に回って、グチや怒りの「ゴミ箱役」に徹してくれる。それでこの人は、いらいら、もやもやとした気持ちがすっきりし、しゃべっているうちに考えがまとまることもある。逆にAさんが悩んでいるときは、この人が「ゴミ箱役」に徹することもあるという。そうやってふたりの関係はつづいている。

ところが、この人があることで落ち込んだときのことだ。運悪くAさんは仕事が立て込んでいて会うことができなかったが、どうしてもだれかに聞いてほしいという気持ちを抑えられなくなった。グチをこぼしていかないと、どんどんもやもやがたまってくる。それで職場の同僚を飲みに誘った。

しかし同僚はAさんとは違う。聞くだけではおさまらない人で、話すばから、

「それ、こうしたほうがいいわよ」

「こうしなさいよ。そうすればよくなるから」

と忠告を繰り出してくる。

ただグチを聞いてもらいたかっただけのこの人、よけいに疲れてしまったそうだ。同僚は、きっぱりした忠告を求めていると思ったのだろうか。それとも、もともと忠告が好きな人だったのだろうか。

いずれにしても、話を聞いてくれる人と、忠告をやたら繰り出す人の、どちらがこの人に好かれているかは明白だ。この人は子どもではない。答えは自分で考える。

人に押し付けられて「はい、そうします」と簡単にいえるものではない。

同僚と別れたあと、この人は「ああ、Aさんとはなしたい」と強く思ったそうだ。

この気持ち、よくわかるだろう。

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【押しつける人より、引き出してくれる人】

「困ったことがあったら、いつでも相談して」

と簡単にいってしまう人がときどきいる。そんなに軽く、相談ごとを歓迎していいのだろうか、と他人事ながら心配になるのである。

アドバイスというのは難しいものだ。自分の経験だけをもとにしてしまったり、「自分だったらこうする」といってしまったりするが、その結果、自分の価値観の押し付けとなってしまいかねない。自分にはそのつもりがなくても、だ。

人に解決策を出してほしいという人ならいざ知らず、多くの大の大人は、結論は自分で出す。アドバイスはあくまでもアドバイスであって、それは解決策を出すためのヒントか、道しるべだ。それがわかっていないと、「ああしなさい」「こうするべきだ」という話になってしまう。

価値観が人それぞれである以上、上手なアドバイスのしかたなどないのがむずかしいところだ。「パソコンって人間的だよ。調子が悪くなったら、ここをこうすればご機嫌を直してもらえるかな、と思って押したり引いたりしてやるのが楽しいんだ」といった人がいたが、人間には「このボタンを押せば治ります」というマニュアルはない。

ただ、ひとついえるとしたら、

「あなたは、どうしたいのか。何を望んでいるのか」これを引き出すのは有効だ。

仕事で悩んでいる人なら、その仕事をつづけたいのか、辞めたいのか。辞めたいのなら、辞めて何をしたいのか。つきあっている異性のことで悩んでいるなら、その人と別れたいのか、何とかして関係をつづけたいのか。

どうしたらいいかわからないから悩んでいるのだ…という反論もあるだろうが、そういうときに必要なのは「どうしたらいいか」ではなく、「どうしたいのか」

「いちばん望んでいるのは何なのか」を考えることである。進路に迷ったとき、「子どものころ、こういうことが大好きだったな」と思い出して道がみえてくるということがあるではないか。

押し付けるのではない、「引き出す」人が相手から好かれる。

相手がほんとうに望むこと、好きなこと、やりたいとおもっていることを引き出してあげられるようになったら、あなたは相手に好感をもたれることはあっても、けむたがられることはなくなるだろう。