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button-only@2x 自分が損をしていると考えていないか?

だれでもなにがしかの負担を強いられる

世の中には金持ちとそうでない人、家族に恵まれている人と孤独な人、仕事で充実している人と仕事がない人までいろいろな人がいるはずなのですが、不思議なことに、多かれ、少なかれ、みんなが自分はなんらかの損をしていると感じているようです。

そのせいで、仕事帰りの会社員が集まるような飲み屋では、仕事や上司に対するグチのオンパレードだし、お母さんの方がおしゃべりする場では、学校や自治体の手際に不満が爆発するのでしょう。

おとなたちだけではありません。小学生くらいの子どもたちも先生や友だち、両親への不満を語らせたら、口々に訴えて止まらなくなるほどで、やはりなにかしら損をしていると感じているのです。

中には本当に、人のため、会社のため、地域のためと思って努力したことが、まったく認められなかったり、だれか他の人に手柄を奪われたりして損をしている人もいるかもしれません。

けれども、多くの人はそれほど「頑張った」わけではないのに、自分だけが損をしていると思いこみがちなのです。

それは、自分以外の人や組織が「得をしている」ように見えるからですが、じつそんなに差がなかったりします。

よくいう「隣の芝生は青く見える」という現象で、実態を見れば自分が置かれている状況、受けている待遇と変わらないことが多いのです。かえって、「得をしている」ように見える人が、じつは損をしていることさえあります。

もともと損をしているのではないとしたら、飲み屋でのグチに費やされた時間と酒代、なによりそこに使われたエネルギーなどは、それこそ無駄だったわけです。社会的に受けるべき保証を受けていないなど、その人が本当に損をしている場合をのぞいて、「損をしている」と考えるのはストップしたほうがいいでしょう。

「損をしている」と考えるのはストップしたほうがいいでしょう。

「損をしている」と考えることをストップすると、驚くべきことが起こります。その瞬間に「得」をしはじめるのです。

たとえば、自分は仕事では恵まれていないが、愛する家族に信頼されているとか、地域の仕事をやらされているが、そのおかげで知り合いが増えたとか、きっと「損をしている」反対側には、「得」が転がっているはずなのです。

【お金がいくらあっても足りないのはなぜか?】

— お金の基礎代謝を下げる方法 —

よく金持ちほど、ケチだと言います。これは、節約家ほどお金が貯まりやすいからかもしれませんが、じつはお金は金持ちであっても足りないと感じるのです。

人間の体でいうと、ヒトは一日中寝ていてもカロリーを消費し、これをエネルギーの基礎代謝と言いますが、お金にもその人なりの「出費の基礎代謝」があります。

今の家庭では、家や車のローンに経費、子どもの教育費・学習塾の月謝、携帯電話の通信費、生命保険料、海外旅行費用などが家計に入っていても当たり前ですが、ほんの二十年前には、このうち半分くらいがぜいたくとされたでしょう。

とくに毎年、家族で海外旅行、などは昔はおもいもつかないことだったといえます。

しかも、今の生活を見ると、家族で夕食を終えたらそれぞれの部屋で自分専用のテレビを見たりテレビゲームをして、夏にはエアコンをキンキンにかけて、電気も全部の部屋で煌々(こうこう)とつけているでしょう。

昔は、食後ひとつのテレビで家族が一緒にだんらんをして、エアコンはなく、電気もひと部屋しかつけていなかったはず。

今のような生活をしていればよけいにお金がかかるのは当然です。収入が増えてもお金が足りないのは、出費が基礎代謝として増えているからです。

では金持ちは余裕があるかというと、やはり足りないと感じています。それは、より豪華な家を買い、ぜいたくなものを食べ、維持費用の高い車を買い、ずさんな投資をして失敗したりするからです。

やはり出費の基礎代謝が高いために、莫大な収入があっても莫大な出費で差し引きゼロになるわけです。

基礎代謝を減らすには、昔の生活に戻ることがいちばん。これは、地球温暖化の原因になる炭酸ガスの排出も減らすため、政府も推奨しています。「家族団らんをしましょう」と言っているのです。

そして、都会に住んでいる人ならできれば車を持たないこと。日曜日のドライブはレンタカーでも十分ではありませんか? ガソリン代、税金、メンテナンス代などバカになりません。近くに自然公園やハイキングコースがあるではありませんか。

お金の基礎代謝が下がると、心にも余裕ができるものです。

【人の失敗を望めば自分も失敗する】

— 人の成功は自分の成功の予兆 —

人の成功をねたましく感じたことはあるでしょうか。見ず知らずの人が自分と同じような仕事や作業などをしていながら、自分よりはるかに高く評価され、テレビのニュースに取り上げられてみんなから賞賛されているようすをみたときなど、なぜ、自分には賞賛されないのか、という気持ちになることがあるものです。

そういうケースならば自分の利益と関わりがほとんどないわけですが、これが同じ職場での昇進がからんでいたりすると、直接、自分の不利益につながることもあります。

学歴社会の日本では、子どものころから勉強の成績競いあっていますから、人よりいい成績を上げればほめられ、成績が悪ければ、まるで人間として存在する価値が低いかのように言われてきました。

じっさいには、東大を卒業して官僚になった人、つまり、勉強の競争で成功してきた人でも汚職や不正に関係して職を失ったりもしますから、一時の成功がそのまま人生の成功となるわけではないのです。

それでも、知り合いのだれかが大儲けしたとか、何かの賞をもらったと聞くととたんに不愉快な感じがしたとしたら、それは、なんでも競おうとしてしまう「競争社会の悪癖」にとらわれているといえるでしょう。

人は、みんなそれぞれ人知れず努力していたり、才能を磨いていたりして、それがいつか認められることもあります。また、認められないこともあります。成功したときには目立ちますが、失敗したときは人にはわかりません。

街を歩いている知らない人が成功しているか、失敗しているか、自分には関わりがないのに、成功を見てねたましく思うこもないのです。

逆に、みんながどんどん成功していけば、世の中の全体がよくなるはずだし、いつかは自分にもその成功が回ってくると考えることもできます。

つまり、人の成功は自分の成功の予兆といってもいいのです。

ねたむことなどまったくなく、祝福すべきことでしょう。

人の失敗を望むと、人の失敗ばかりを探すことになります。失敗している人を見て、あれより自分はましだな、などと考えていると、いつかはその失敗が自分に回って来るとも考えられるのです。

【たまにはわざと失敗してみる】

— 成功ばかりが人生ではない —

人は、小さ頃から「お金に困らないこと」「きちんと食事ができること」「きちんと食事ができること」「きちんとした身なりをすること」「人に迷惑をかけないこと」「家族に負担をかけないこと」などなど、数限りない「これが正しい」という道を示されてきます。

家族同士でも、友人に対しても他人に対しても、「こうしてはいけない、こうするのが正しい」という規範が示されているのです。

それはそれで確かに正しいのですが、問題は、いつもすべてがうまくいくわけではないということ。どこかで失敗があって、何かを失ったりするほうが自然なのです。

あまりに失敗のない人生は、結構味気ないものかもしれません。なにしろ親に言われた通り、上司に命じられたとおり、恋人に追われた通りに行動して、うまくこなしても、そこでは「自分」が希薄になっているかもしれません。

ずっと失敗知らずで、とんとん拍子に出世した元国会議員が、つまらないミスで挫折する姿をいくつか見たと思いますが、失敗がないということは、いつかは失敗するということでもあるのです。

そこで、「小さな失敗」を自分で意識してやってみるのもひとつの方法です。失敗したときに、自分はいったいどうやって問題を解決するのだろう、とシュミレーションをしてみるのです。

仕事で失敗してみるわけにはいきませんから、たとえば家族との約束を、わざと忘れたふりをしてみるというのはどうでしょう。大事な約束では問題が大きすぎますが、なにか買ってくるという約束など。

本でも食べ物でもいいのですが、その日に必要というほどのものでなければ、家族はとくに怒ったりもしないでしょう。

けれども、失敗した人は、そのことで借りができることに気がつきます。これで、失敗した人の気持ちが少しはわかるでしょう。借りができると、プレッシャーになり、つぎにまた失敗したら大変だと考えます。

このプレッシャーが、かえって再び失敗を誘うものだということがわかります。ふだん失敗ののない人がミスをすると、家族も心配するかもしれません。家の中にも心のさざ波が広がっていきます。失敗は、当たり前の成功よりずっと興味深いものです。