【客観的な評価には意味がない】
つねに自分が「どう見えるか」が心配な人がいます。つまり人が自分をどう見ているかということですが、服装や外見にはじまって、人格をどう見ているのかなどが気になってしかたがない、というタイプです。
ビジネス文章などを作成するときでも、上司に見せる前に「これで、どうですかね」などと同僚に見せる人がいますが、やはり、客観的評価が気になるのでしょう。上司の評価は、気に入るか気に入らないかの絶対的評価ですから、その前に一般的にはどうなのかを知りたいわけです。
自分の性格についても「私は、こういう人だから」と自分で説明したがる人もいますが、これも、本当にそういう性格なのか、自分自身で自信が持てないためにレッテル貼りをしてみせているのでしょう。
こういう自己評価はたいていいい加減で、「私は神経質だから」と言う人に限ってそうでもないものです。本当に神経質な人は、そんなことを人に知られたら、と思うと冷静ではいられなくなるはずです。
なぜ、こうした間違った自己評価をするのかというと、恐らくこれは、だれかにそう評価されたことがあり、意外にその評価をするのかというと、恐らくこれは、だれかにそう評価されたことがあり、意外にその評価が気に入っているからではないかと考えられます。つまり、「あなた繊細ね」と言われて、「そうか、私は繊細なのか。それもなかなかいいかもしれない」とそれ以降「自分は繊細」というようになるというパターンです。
客観的評価というものは、それを評価した人の経験によってずいぶんと変わります。非常に繊細な人がふつうの人を見ると「神経の図太い人だ」と思うかもしれませんが、非常におおらかな人がふつうの人を見ると、「なんて神経質な人だ」と感じるのです。
従って、客観的評価はじつはあまり客観的ではなく、基礎がないことが多いと言えるでしょう。
ということは、自分が「どう見えるか」「どんな人だと思われているか」ということは職場で投票でもしない限り客観的な評価としてはわからないのです。
また、ある仕事を見たときに、この人は緻密(ちみつ)な仕事をするなと思った同じ人が、他の仕事では抜けや漏れ落ちがたくさんあったりします。人の評価がいい加減だということは、この点からもよくわかるはずです。
【資格は自分の顔ではない】
— 自分の本当の姿は心の中にしかない —
不況によるリストラや就職難、転職難の昨今、ネコも杓子(しゃくし)も資格を取ろうという考え方があるようです。
資格を取るために勉強しようというやる気は素晴らしいのですが、資格に対する考え方に問題があるかもしれません。というのも、資格の中には、試験に合格しただけでは、仕事としての意味がないものがあるからです。
また、試験を受けなくても講座を受ければ取れる資格というのも数多くあるのです。が、その中には一般的には価値がないものもあります。一企業が主催している資格で、その企業の仕事をする時にしか意味がないのに、一般的なものであるかのように広告している場合です。
ひどいものになると、資格講座の教材だけを売りつけて、役に立たないカセットテープなども送りつけるだけで資格も取れないし、勉強にもならないインチキ商法まであります。こういう詐欺商法には十分気をつける必要があります。
そんなリスクがあっても、資格と名の付くものを取ろうとするのは、資格で自分の価値が上がると考えるからでしょう。
確かに、調理師や美容師、自動車整備士のように、資格イコール仕事に結びつくものもあるので勘違いされるようですが、たとえば、商業簿記の資格を取ったからといって、すぐに経理の専門家になれるわけではありません。結局は実務経験が問題にされるので、実際に仕事として経験したことがない種類の資格を取っても、すぐにはその道のプロにはなれないわけです。資格は自分の仕事にあとからついてくるものと考えたほうがいいでしょう。資格で価値が上がるのではなく、能力を付けたから資格がついてくるという考え方です。
資格は自分の顔、看板ではなく、問題は中身=実務能力です。
中には、難関の資格をたくさん取ることが趣味という人もいます。それも向上心と考えればいいのですが、やはり看板だと考えるのなら少し違うでしょう。
手に職をつける資格以外は、実際に就職ても有利にはなりません。かえって、実務経験がないと大きな失敗を犯しかねないのです。また、雇う側としてはあまりに高度な資格を持っている人は、すぐに独立されるため反対に雇わないという傾向もあるのです。
【「これは常識だ」は禁物だ】
— 自分の考え方を押し付ける人は成長しない —
セールスで、話し上手だからといってずっと仕事がうまくいくとは限らないと述べましたが、同じような意味で、自分の知識を絶対的になものとしたり、考え方を押し付けたりする人も、最初はなんとかなっても次第にうまくいかなくなるものです。
強硬(きょうこう)に自分のアイデアを通して、成功し続ければその人の意見は重視されるかもしれませんが、いつかは失敗するものです。そんなときには、だれも救いの手をさしのべてくれません。その人に対して、いい感情は持っていないからです。
よく、管理職の人が、部下に対して「これは常識だ、そんなことも知らなかったのか。大学で何を勉強してきたんだ」などと叱責することがありますが、これも、いわば自分の知識を絶対的な基準とした言い方でしょう。
「常識」というものは、状況によって、また、暮らしてきた環境、地域、時代によっても大きく変化しています。もちろん、業界によっても違います。
たとえば、外部から上司あてに電話がかかってきて、上司がたまたま電話中だったとします。その電話の相手にもよりますが、さして緊急でもなく、重要な相手でもない場合には、「ただ今電話中ですが、お掛け直ししましょうか」と相手の連絡先を聞く、というのは基本でしょう。
ところが、その扱いに対して上司が、「どうして今、電話がかかっている、とメモを回さないのか。そんな常識もないのか」と言ったとしたらどうでしょう。確かにそういう方法もありますが、そうして欲しいのなら前もってそう申し送っておくべきでしょう。
業界によっては、同じような状況で「ちょっとお待ちください」と言ったきり、上司が電話に出るまで三分でも五分でも保留にするところもあります。私もやられたことがあって、五分以上待たされてカチンときたのっで、切ってしまったこともあります。
これなど非常識というのか、常識の範囲なのかは、そこでの慣習によるでしょう。ちなみに、アメリカなどでは、国際電話でも平気で保留にして待たせます。
いずれにしても、「常識」を振りかざしたりして、自分の知識や意見を押し付けることは、相手の気分を害するばかりでなく、押し付けている自分にとってもあまりいいことではありません。周囲の人の意見が聞けないために、自分自身の判断力の面でもマイナスになってくるからです。