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button-only@2x 親戚づきあい、人間関係はほどほどがいい

【親戚は血のつながった他人と考える】

親戚との人間関係は、これも人によってさまざまですが、共通していることがあります。それは、過去にお互いに甘えたことがあったり、迷惑をかけたことがある、ということです。

親戚には、なにかと甘えてしまうもので、従兄弟(いとこ)の家に子どもを泊まりがけで遊びに行かせても、たとえば、手土産などたいそうな物は持っていかないでしょう。せいぜい、菓子折りくらいです。

なぜ、そこに甘えがあるのかというと、根底に「お互い様」という発想があるからでしょう。親戚は、つきあいも何十年になるわけですから、お互いに迷惑を掛け合うこともあり、それを含んでの「甘え」なのです。

ほとんどつきあいもない親戚というのもあるでしょうが、いざというときにはやはり頼みになるものです。遠くても血がつながっているということは、やはりそこに「きずな」が生まれるからです。

他人同士で仲良くなって「親戚づきあい」をしているといいますが、やはり他人とは親戚のようにはつきあえません。なぜなら、相手のことを子どものころから知っているわけではないし、第一、相手にどんな親兄弟、親戚がいるのかも知らないのです。そこには、親しさにも限度があり、「親友」の域を出ないでしょう。

たとえば、親戚といっしょに旅行にいったら、親戚が所有している自動車で移動しても、ガソリン代を半分持つくらいで済ませるでしょう。けれども、他人同士だと、運転をしてもらったことに対するお礼を考えると思います。

そのあたりが、親戚と他人の「親戚づきあい」の差でしょう。

私の身内は、同じ敷地に三世代、ご家族が住んでいます、同じ敷地なので、しょっちゅう顔を合わせます。これで、家族、親戚だからと甘えていたらトラブルのものになると考えて、暗黙のルールがあります。

まず、相手の家を突然訪問することはしない。訪問するときには必ず電話を入れて、相手の都合を確かめます。

もうひとつは、味噌、醤油などの貸し借りをしない。最初は調味料の借り貸しでも、そのうちコメになったりします。親戚でも血のつながった他人、と考えるのも一案です。

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【自分が「変わる」ことが大切】

— 人は変わらないようで変わっている —

よく、「あの人は何を言っても無駄だ」「ああなったら、もう変わらない」と陰でささやかれることがあります。少し悪口気味ですが、恐らくそれは事実で、その人は人の意見を聞く耳を持たず、性格的にも人間的にも固まってしまっているのでしょう。

固まり方が、いい方向ならいいのですが、間違った方向に固まってしまうと周囲の人たち、とくにいっしょに仕事をする人たちは困ってしまいます。その人の上司に意見を伝えて、注意してもらうという方法もきっと効果がないのでしょう。

人の性格は変わらないといいますが、私自身はけっこう変わってきているし、自分で変えることもできると思っています。

これはもちろん、環境を含めて考えなければなりません。たとえば、営業部門のチーフで毎日、部下の尻を叩いているような管理職の人は、攻撃的な性格で、いつもイライラいしていて、家に帰っても売上げを気にして休まることがない、という性格、および状況になるかもしれません。けれども、いったん営業の現場を離れて、ストレスが格段に少ない人事担当にでもなれば、攻撃性は少なくとも薄れるでしょう。

会社をリストラされるなどして、事務部門の人が接客業になれば、恐らく、そのままの性格では仕事になりませんから、変わらざるをえないのではないでしょうか。

人は立場や仕事が変われば、それに合わせて性格や人間性も変化するものなのです。

とくに、厳格さが求められた管理職などは、その職を解かれれればほとんど別人のように穏和になります。

自分を変えようと思ったら、その環境を変えることがいちばん手っ取り早いということでしょう。仕事や住まい、友人関係、そうしたものをある程度計算してうまくコントロールすればいい方向に修正することも可能なのです。つまり、この仕事をして、こういう人とつきあえば、穏やかな性格になれるだろうと読むわけです。

ただし、持って生まれた性格というのは変わらない部分があります。これは実の母親などが見れば、どんなに演技をしても隠しても、変わっていないことを見抜かれてしまうような部分です。

自然に「変わる」というイメージを持つことがいちばん大切でしょう。

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【自分の存在を忘れてみる】

— 自分にとらわれない自分をイメージする —

昔から哲学者は人間の存在、つまり自分は存在しているのか、ということを考察してきましたが、現代人も本来あるはずの自分自身を見つけたい、自分が何者なのか知りたい、というかなり哲学的なことを考える人が多いようです。

といっても、よく聞くと、何かに行き詰って先が見えなくなったとか、仕事を失ってアイデンティティを失ってしまったという切実な話です。

結論からいうと、「自分探しをしても見つからない」ということでしょう。何かに行き詰った人は、それまでの方法論が通用しなくなって、途方に暮れているわけです。

どちらかというと、自分を探したいというより、だれか自分を助けてくれる人を探したいのであって、その視野の中には自分の姿などないのです。

仕事を失ってアイデンティティまで危うくなるということは往々にしてありますが、ここで問われるのは、自分は何をしてきたのだろうという悔悟の念ではなくて、これからどうして生きていくかという積極的な姿勢なのです。

そんなときに、失った仕事と自分の働き場所のことをくよくよ考えて、過去の自分を探しても、なにも見つからないというわけです。

というわけで、「自分探しはやめて、自分作りをしてはどうか」というのが、いちばん適当なことばでしょう。過去は過去として整理して、未来に生きなければしかたがありません。

どうしても自分の存在が見えなくなったら、いっそのこと存在を忘れてみることもいいでしょう。たとえば、町中のベンチで道行く人を眺めながら、自分はそこに存在しないとイメージしてみます。きっと、ほんの10分くらいで、町の人たちと自分との距離感覚を思い出すでしょう。消そうとしても消せないもの、それが自分が存在するという感覚だということです。

一方で、がむしゃらに仕事をしてきた、または、がむしゃらに子育てをしてきたという人が、節目に自分の存在を確認するために振り返るという行為は必要だと思います。

そのまま走っても、場合によっては、すでにゴールを過ぎていたりするからです。

また、自分の健康をきちんとチェックすることや自分の心との対話を取り戻すということも、ときには必要なことです。