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【本当のプロフェッショナルは聞き上手】

どんな職業でも、プロフェッショナルと言われる人がいます。カウンセラーやセラピストもプロフェッショナルでなければならないのですが、ときどき、プロらしからぬ人がいるとも聞き及びます。

つまり、話を聞かなければならないのに、すぐにアドバイスをしようとする傾向のある人がいるというのです。

人の心の葛藤を解きほぐそうというのですから、一日、二日話を聞いたくらいではその人の心の奥底は見えてこないはずなのです。

物を販売するセールスのプロフェッショナルも、聞き上手な人が成績を伸ばすといいます。お客が本当に必要としている物を的確につかむためには、やはり話をよく聞くことが必要なのでしょう。もうひとつは、話を上手に聞く人を、お客のほうが信用する、ということもあるでしょう。

一方的にしゃべりまくられたら、どんなによさそうな商品を売ろうとしていても、うさんくさいと感じるものです。

学校の先生も、もっと生徒や学生の話を聞く必要があるでしょう。これは先生の自身のためでもあるのです。なぜなら、自分が教壇の上から一方的に話しているだけでは、生徒の欲するものがよくわからず教え方はいつまで経っても進歩しないからです。

占いをする易者は占い師も話のプロと言えるでしょう。私はあまり信じませんが、人気のある易者は、人生に迷いのある人に、いろいろな理由を説明して進むべき方向を示すのですから、それなりにカウンセリングの役割を果たしているのかもしれません。

ちまたにはさまざまな電話相談がありますが、電話で話をして相手が求めていることを把握するのは対面しているよりはるかに困難です。相手がどんな表情をしているか、どんな目をしているかがまったくわからないことは、相手の考えを探るうえで、暗闇で手探りをしているようなものなのです。

それに、電話だと相手が気分を害してもわかりにくいので、突然怒りだしてしまうこともあります。イライラしていることが電話口では伝わらないことがあるのです。

ですから、電話でも対面しているときと同様に相談に乗れる人は本当のプロフェッショナルと言えるでしょう。

 

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【とにかく体を動かす】

–心を敏感にするには体を刺激する–

体を動かすことがなぜ、心の問題である「感動」につながるのかと思う方もいるかもしれません。しかしこれは大いに問題があるのです。

体を動かすと身体の各部の動きから脳が刺激されて、さまざまな脳内物質が分泌され、その中には精神的に落ち着きを与えるものや感覚を刺激するさまざまなものが含まれているのです。

寝る前に軽く体操をすると、安眠できるというような効果は、この脳内物質などの影響だと言われています。

自分は時間がないから運動はできないという人も多いのですが、とくに運動の時間を作らなくても、なにかのついでに運動をすることができます。

たとえば、通勤の途中に駅のエスカレーターを使っているとしたら、階段を使うようにします。歩くときにも、足腰を意識して少し早足で歩きます。電車に乗っているときには、手すりにつかまるだけではなく、軽く腕に力を入れたり、懸垂(けんすい)のように体重を支えてみたりします。

立ち仕事をしているとき、たとえば、料理をしているときには、かかとを上げ下げする運動ができます。テレビを見ながら両手で伸ばした両足先を引っ張ると、全身のストレッチになります。

ダンベルでもあれば両手に持ってテレビを見ながら軽く上げ下げすればいいのです。

できれば早起きして朝日を拝んで感動したついでに、近くを一回りを散歩する時間くらい作りたいもの。朝の街はふだんは見えないさまざまなことが起こっていて、いい刺激になり、一日の感動がまた違ってきます。

どうしても散歩の時間が取れないという人は、家の中でジョギングをすることもできます。柱や壁に両手をあてて、その場で軽く足踏みするだけで、頭がスッキリすることうけあいです。

とにかく、運動にしても感動にしても、発想をやわらかくすることが基本。「こうでなければ」という決まりはないのです。

体がやわらかくなれば、心もやわらかく、豊かな発想が湧いてきます。「時間がない」といった言い訳を考える前にとにかく体をうごかしましょう。

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【ボランティアをする】

–自分の心の豊かさをもらえる–

およそ、人として生まれて人生で行えることでもっとも意義深いことは、「人のために無償で何かをする」ことだと思います。

世の中には手助けを必要とする人がたくさんいますから、無償、無報酬のボランティアはいつでも求められています。公園や道端の掃除から、障害者や老人の介護などの手伝い、外国の貧困で苦しむ子どもたちへの援助まで、いろいろな形のボランティアができます。

けれども、町内会などで掃除当番になったとき以外に、ボランティアらしいボランティアを経験したことがない人もいます。そういう人は、ただ、そういうチャンスがなかったからボランティアをやったことがないのでしょう。

阪神・淡路大震災では、多くの市民が日本全国から災害時の支援ボランティアとして阪神・淡路地域に集まりました。

このときに、多くのボランティアに参加した人が語っていたのが、「人を救うことで、自分たちの心が救われることがわかった」ということでした。被災した人も支援にきた人も、厳寒の中でいっしょに寒さに震えながらテントで過ごし、力を合わせて食料の配布をしたり、物資を配ったりしていましたから、地震後の困難な時期にはボランティアたちもいっしょに被災したようなものです。

そんな支援をすることが、自分の救いになったというのです。中には、会社に休職願いを出してきた人や、現地に入って何か月も自宅に戻っていない人などもいました。

一時期テント村に住み着いてしまった人もいました。

それまでの自分の居場所より、被災地で支援をしているほうがずっと居心地がよかったのです。ふだんの自分にはなかった充実感や感動がそこでは得られたのです。

もちろん、人間のすることですから、不十分さもあったでしょう。それでも、そんな不十分さを上回る意義が、ボランティアをした人は得られたのです。

経験のない方は、ぜひ経験をお勧めします。それまでに見えなかった自分の姿が見えてきますから。ただしボランティアといってもきれいごとではありません。

私の病院でもすぐにやめてしまう人もいました。汚れ仕事に耐えられなかったのです。

その点も考えてやるかやらないか決めたらいいでしょう。