
「捨てられない人」「片付けられない人」は、わがままな人だ。自己中心気質というのか、他人のことを考えない。散らかっていることを注意すると必ず、
「自分の机の上を散らかそうがどうしようが、自分の問題なんだから、周りの人になんて関係ないじゃない」というのが、その証しだ。
ゴチャゴチャになった机の上を見せつけられるだけで、周りにいる人たちはイライラさせられているのだ。
のみならず、しょっちゅう「あれがない、あれはどこへいった」とバタバタしながら、あっちこっちをひっくり返している様子を見せつけられたら、たまらない気持ちにさせられる。周りの人がそんな状態になっていることに、まったく無頓着なのだから、やっぱり自分の都合しか考えない人なのだ。
だから、しょっちゅう人とトラブルばかり起こしている。
やる気がなく、約束したことはよく忘れ、バタバタと落ち着きがなく、言い訳がましい。さらにその上に「ちょっとねぇ、机の上、片づければ」「よけいなお世話だ。ほっといてよ」といった口論もする。これでは周りの人とうまくやってゆけるわけがないではないか。
「捨てる」「片づける」は、自分のためのみならず、人のためでもあるのだ。
「捨てる」と、こんなに健康によい
禅宗では「掃除する」ことが、大切な修行のひとつになっているという。朝早く起き、座禅をし、朝食を摂り、あとはひたすら埃を払う、掃き清める、雑巾がけをする。
というのが、禅宗での修行僧の暮らしなのだそうだ。
身の回りを清めるということが、自分自身の心をも清める。また人間修行につながるという考え方がある。
「掃除」の心理的効果というのは、たしかにあるのだと思う。
私たちの日常生活の中でも、たとえば仕事机の上に溜まっていた不要なモノを捨て、書類を整理し、文房具などは所定の場所へ戻す。そしてきれいさっぱり片づいた机の上を眺める。
それだけでも、なんともうれしい気持ちが自然とわき上がってくるのを感じるものだ。心が軽くなった気分。そして大げさではなく、自分が人間としてひとつ成長した感じがするなあ、という気持ちもしてくるのだ。
引きこもりや、うつ病の患者さんを、治療の一環として公園や河川敷の清掃ボランティアに参加させているところもある。
ゴミやペットボトルを拾って、ゴミ袋に集めて捨てるのだが、そういう行為がストレス解消となり、前向きな考え方ができるようになる。
体を動かし適度な運動になるというのも、心の健康のためによい。また参加者のみんなと協力してやることで、閉じこもっていた気持ちが解放されることも期待できる。
ちなみに私の家でも、家族のコミュニケーションをはかるために、家族総出で大掃除をすることがある。それぞれ役割分担を決め、協力し合って家をきれいにするのだ。
掃除で汗を流したあとの一杯のビールの、なんとおいしいこと。自然と、みんなの顔に晴れ晴れとした笑みが浮かぶ。
そういえば知り合いがいっていたが、彼は、家の掃除をし終わった女房の顔を見て、いつも惚れ直すのだそうだ。
きれいになった部屋を見まわしているときの女房の清々しい顔、満足そうな表情を見ていると、連れ添って四半世紀の古女房ではあるが、しみじみと「きれいだなあ」と実感するのだという。この気持ち、世の亭主族であればどなたでも一度や二度は味わったことがあるのではないか。
私の女房も、大の掃除好きで暇さえあればハタキとホウキをもって部屋のあちこちを歩きまわっている。
そういう掃除の心理的効果によって、いつもほがらかでいてくれる。私もそんな女房を見て、日々ありがたいと思っている次第。
ひとりの人間として成長するために、捨てる
少し話がずれたが、要らないモノを捨て、身の回りをきれいにすることは、こんなにすばらしい効用がある、といいたいのである。
その心理的効果を思いつくままに挙げておこう。
◉ストレス解消となる。
◉気持ちが前向きになる。
◉いい運動になる。
◉集中力が増す
◉信頼される。
◉出世する
◉人との協調性が生まれる。
◉美容によい。
まさに、いいことづくめなのである。
「捨てる」も「片づける」も、私たちが、日々の暮らしの中で、さして意識することもなくこなしていることだ。しかしこれを大いに意識して、きっちりとやってゆくように心がけたい。
それだけで十分に人生は上昇気流に乗り、幸せがもたらされる。
しかし怖いのは、この暮らしの基本的なことを疎かにすると、たちまち私たちの人生は悪い方向へと傾いてゆくところだ。
基本が大事とよくいう。
では、生活の基本とは何か。けっして、ただ無気力に「溜める」ことではなく、「捨てる」「片づける」ということのように思う。
4章 「タンスの肥やし」には女心が詰まっている
ブランド物を買った私の大失敗
上手な買い物のコツをひとことでまとめるとしたら、「マイペース」といっておきたい。どういうことかというと、
◉自分が本心からほしいと思うモノだけを買う。
◉流行や、人の言動には惑わされない。
◉広告の魅力のある言葉にふりまわされない。
あくまでも自分は自分のやり方で、ということだ。しかしこれが、言葉でいうのは簡単だが、実践するのはむずかしい。
自分にも、よくわかっている。
むかしイギリスの有名なブランドのコートを買ったことがある。そのブランド名に惹かれての衝動買い。このコートを着ていれば、自分もイギリス紳士のように、かっこいいぞ、ダンディだぞと、そんな下心をもあったのだ。
とはいえ、さすがに紳士の国イギリスからやってきたコートだけあって仕立てもよろしい。しかも当時としてはまだ日本ではあまり知られていなかったメーカーだったから、これを着ている人も少ないだろうと思われた。
それが思惑はずれだった。
さっそく得意になって着て出かけたが、乗り込んだ新幹線の同じ車両に、私と同じコートを着ている人が何人かいる。なんだか一気に興ざめであった。
それ以来そのコートに袖を通すこともなく、まったくもって「ムダな買い物をしてしまった」と、苦い気持ちで思い出す。
まあ買い物というものは「他人ペース」でやると、えてしてあとで痛い目にあるようである。
「他人ペース」とはつまり、私のこのムダな買い物のようなこと。自分がそのモノを好きと感じているかどうかなどは横に置いておいて、ヘタな下心を起こして、人に見せびらかしたいばかりにブランド物を買うといったことである。
いま思い返しても悔しくて、ここで話を終わらせるわけにはゆかなくなった。もう少し続けねばなるまい。
「流行に遅れたくない」が大失敗の元
実際に使いこなせるかどうかは別にして、「評判」のものは、ともかく手許に置いておきたくなる。これも「他人ペース」の買い物だ。そして、えてしてムダな買い物となる。
そういえば、むかし家庭用餅つき機なんてモノがあった。発売当時は、大流行だった。我が家も我もと、買い求めた。炊き立て、つき立ての、おいしいお餅をご家庭でも作れます、という宣伝文句に、みなさん惹かれたのだ。
しかし多くの人たちが、餅なんて正月を除き、そうしょっちゅう食べるものではないこと。そして機械が自動で餅をついてくれるのだから、これは楽だと思っていたが、結局お店から買ってくるほうがもっと楽だということに「買ってから」気づいたのだ。
こんな簡単なことを、なぜ買う前に気づかなかったのかと思うのだが、そこに流行の魔力がある。
その魔力に引き込まれて、買ったはいいが使ったのはその年だけ。翌年からはお蔵入りしたまま出てこない、ということになってしまった。
まあ家庭用餅つき機ばかりではないだろう。
流行しているから、ブランド物だからということで、つい購買意欲を刺激されてモノを買う。買うのはいいが、利用することもないまま家のどこかに溜まってゆく。
その溜まったモノに費やしたお金を合計してみれば、いったいいくらくらいになるか。たぶん、どこかの高級ホテルで家族みんなで晩メシを食えるくらいの金額になっているかもしれない。ひょっとしたら二泊三日の温泉旅行に匹敵するくらいの金額になっているかもしれぬ。
それだったら、「うまいものを食べたほうがよかったな。温泉にゆっくりつかっているほうがよかった」と反省すること、しきり。
そんなふうに家のどこかに、もったいないお宝を眠らせたままにしているご家庭も、我が家も含めてさぞ多いことだろうと想像するのだ。
とはいえ私たち人間には知恵がある。
失敗から教訓を得て、同じ失敗を繰り返されないようにするのが、人の知恵だ。
失敗は成功のもと。たくさん失敗をしながら、人は買い物上手になってゆくと、ここは前向きに考えておきたい。
そうすれば要らないモノを上に溜め込んで、四苦八苦することもなくなる。
さて私自身、たくさんのムダな買い物をし、着ないもの使わないモノを家の中に溜め込み、しょうがなく捨てる、ということを恥ずかしながら幾度となく繰り返してきた。
いま、私の中には教訓といえるものがたくさんある。まずはそれを、ここで列挙しておこう。
◉モノを買うときは、想像力を働かせよ。
◉ほしいモノは「ひと呼吸置いてから」買っても、遅くはない。
◉そのモノの「置き場所」を決めてから、モノは買うべし。
◉そのモノを実際に使っている人の意見を訊いてみよ。
◉ローンの支払いが終わらないうちは、同じモノは買うな。
◉同じアイテムのモノばかり買い揃える愚行はやめよ。
◉家計簿をつけよう。
以上。順を追って、詳しく説明していこう。
「なんとなく」はダメ、想像力を働かせて買う
家の中に必要のないモノを溜めないコツは、簡単なことで、必要のないモノは買わなければいいのである。
とはいえ、私たちはついつい必要のないモノを買ってしまいがちだ。
たとえば、こんなことがある。
ブティックの店員から「お似合いですよ、とっても」とおだてられて、ついその気になって買ってしまう。ところが、家で試着してみると、なんだか自分には似合わない。返品したいが、「返品ですかあ、マイッタなあ」といった目つきで見られるのが嫌で、タンスに押し込み、そのまま「肥やし」になっている。
こんなこともあるのではないか。
職場のお昼休み、同僚のひとりが熱心に英語の参考書を読んでいる。聞けば、ひとりで海外ができるようにと英語の特訓中なのだという。そんな同僚の姿に「かっこいい」と感銘し、自分も英語の勉強を始めようと職場の帰りがけ書店でどっさり参考書を買い込んできたのはよかったが、勉強は三日坊主。
こんなこともある。
友人同士でいった京都旅行。みやげ物屋で「さて、何を買ってゆこうか」と迷っているところ、友人のひとりが清水焼の壺に「きれいねえ、これ。いいわねえ、これ」と盛んに感心している。
友人に乗せられて、つい「じゃあ私も、これ買ってゆこう」となったのだが、帰宅してから気づいた。
我が家には、こんな立派な壺を置く床の間もないし、そこらじゅう散らかり放題で、こんな壺に花を活けて飾っておくような風雅な人の暮らす家ではないのだ。結局清水焼の壺は、旅のいい思い出としてお蔵入り。蔵の中で宝のもち腐れとなっている。そのうち、「ある」ことさえ忘れてしまうだろう。
さて、なぜ、このような失敗をすることになるのか。
私はイマジネーションが足りないからだと思う。ないから、いま述べたような衝動買いをして、家の中を必要のないモノだらけにし、狭苦しい思いをしながら暮らしてゆくことになる。
人に勧められて、何も考えずに買う。
人がもっているモノが羨ましいというだけで、何も考えずに買う。
人がそれを買ったから自分もという理由だけで、何も考えずに買う。
これがいけない。もっと想像力を、だ。そこでちょっと、その洋服を着た自分の姿を想像してみればよかった。
それほど勉強好きでもない自分が、はたして仕事に疲れて家に帰って参考書を手にできるかどうか思い描いてみればよかった。
我が家に清水焼の壺を置く場所があるかどうか思いをめぐらしてみればよかったのだ。
想像力を働かすのは買い物上手になるコツ、ムダな買い物をして、後で悔しい思いをしないで済むコツである。