人の欠点につい目が行ってしまう人と、長所を見つけるのがうまい人がいる。どちらが好感をもたれるかといえば、後者に決まっている。
長所発見の名人がいる。
この人の上司である部長は、ねちねち、くどくどタイプで、いつも部下からうっとうしがられている。だれかがミスをすれば呼びつけて延々と叱り、それでも足りないのか過去の失敗までももち出す。いつ終わるとも知れない、果てしのないねちねち。
しかしこの人は、同僚の間でこの部長の悪口が始まると、こういうのである。
「でもねえ、知ってる? 部長ってきれい好きなんだよ。机の引き出しなんか、きちんと整理されているし、だから仕事の効率もいいでしょ。あれは見習いたいわよね」
この人だけが知っている、部長の知られざるいいところである。
ほかにもある。遅刻魔の同僚にかんしては、
「彼は細かいことは気にしないのよ。おおらかでいいじゃない。あれは大物の器かもよ」
ひとり暴走しがちな後輩については、
「けっこう繊細なのよ。だって、あとでたいてい『きのうはゴメン』とかいうじゃない」
いわれてみればそんな気がする。しかし、それを認識していたのはこの人だけ。
一度イヤなやつだと思うと、その人の別の面はなかなか見えなくなってしまうものだ。それを透き通った眼鏡でしっかり見ている。一種の才能ではないか。
長所発見は、好感度アップの秘訣である。まわりの人たちのささくれだった気分も穏やかになるし、指摘された相手にも、もちろん好かれる。
だれにでもよい面はある。というより、嫌われている面も視点を変えればよく見える。イヤなやつだと思うから、あれもこれも悪く見えるのだ。まずは相手をいろいろな角度から見てみよう。
「目立ちたがり屋の見栄っぱり」なら「ものおじしなくて華やかな人」。「石頭の堅物」なら「謹厳実直な人」。「高飛車な威張り屋」なら「堂々として威厳がある」。
これでよい。発想を変えて見ているうちに、ほかのよい面も見えてくる。
ただし、「私はいい人。他人を悪くいわない心優しい人」をアピールすると、かえって嫌味である。いい人ぶることは、自分はイヤな面もたくさんもち合わせている…と自覚しているまわりの人たちの、反感を買うだけである。
【大喜びすることが、最高のマナーなのか】
人に要求はしないが、ちょっとしたことをしてもらったら喜ぶ。そういう人は一見、とても人から好かれるように思う。ところが、じつは困惑させることもある、という話をひとつ。
その人は、どこそこ遊びにいこうと誘われれば「うれしい! 私も行きたいと思っていたの」と大喜びをし、おみやげをもらえば「すごい! すてき!」とこれまた大喜びをする。ほんとは望んだものではなくても、そうする人である。
誕生日に恋人から手づくりの一点のアクセサリーをもらったときも、いつものように大喜びした。
「やっぱり手づくりはいいわね。この世にひとつしかないんだもんね」
これを聞いた心優しい恋人は、そんなに喜んでくれるなら…と、この人へのプレゼントやおみやげは手づくりの一点ものにしようと決めた。
さて、ここからが問題である。
この人は、手づくりの一点ものにこだわっていたわけではない。人から何かをもらったら、精一杯喜んだ顔を見せる、感動したことを伝える、それが最高のお返しでマナーだと信じていたから、そうしたのである。
そうとは知らない恋人は、「ほんとに素直ないい子だから、また喜ばせてやろう」と、どこへ行っても手づくりのものを探すことになった。この人はもらえば大喜びをする。彼は「また喜ばせてやろう」と探す。その繰り返しのなかで、ある日、ふと気がついた。
「こういうの、探すのが大変なんじゃないかしら。彼にわざわざ探さなくてもいいわよっていってあげたほうがいいのかも…」と。
大げさに喜んでみせることが、最高返礼なのではない。望むものをときにははっきりいうのも、立派なサービスである。
友人たちは、この人が何をあげても喜ぶので、逆にいつも何をあげればいいのか、わからなくなっていたそうだ。
何がいちばん好きなのかがわからない。「何でも好き」は「何でもいい」ということか。そう思われても無理はない。
ある病院では「遠慮せずにイヤなことはイヤ、ほしいものはほしい、とはっきりいってくれたほうが助かる」という。看護婦さんは日夜てんてこ舞いだ。
この人のように、遠慮する気遣いがあるのなら、「何でもOK」のあいまいな態度を改めたほうが、よほど気が利いているのではないか。
【知ったかぶりをすれば、賢くなるチャンスを失う】
年を取ると、若い人に教えを請うのがちょっと気恥ずかしくなる。最新のハイテック機器のこと、いまの流行語、人気のテレビタレントのこと、最近海外から入ってきたスポーツのこと。若い世代のほうが詳しく知っていることはたくさんあるから、思い切って聞くことにしているのだが…。
料理人の道場六三郎さんが、エッセイのなかでこんなことを書いている。
「知らないことは恥ずかしいことではない。知ったかぶりをしたら、賢くなるチャンスを逃すことになる。そんなことも知らないのか、とバカにするやつもいるが、そんなのは、どうせたいしたやつじゃない」
道場さんは同業の後輩にも、自分の店の若い衆にも気軽に、
「ちょっとぼくにも教えてぇな」
と尋ねるそうである。「人生、皆、師である」ともいっている。
好奇心旺盛な人、知りたがりの人、おもしろそうなことはひととおり知っておかないと気がすまない人。そういう人たちは謙虚である。
知りたい欲求を満たすためには、「知ってるわい」と虚勢を張ってはいられない。恥ずかしがらずに聞く、のではない。知りたくてたまたない気持ちが勝って、恥ずかしいという気持ちなど、どこにも湧いてこないのであろう。だから素直な気持ちで聞ける。
謙虚になれる人は、もちろん人に好かれる。好かれて、たくさんの人からいろいろなものごとを吸収できて、ますます物知りになる。ひとつ知ればおもしろくなってさらに知りたくなり、ますます好奇心がみなぎっていく。
ならば、教えてを請う人に対して「そんなことも知らないのか」という態度に出る人はどうか。
道場さんがいうとおり、その人のほうがちっぽけな人間だ。こういう人は「知らないこと=恥ずかしいこと」だと思い込んでいるので、わからないことがあっても人に聞けない。聞いて、自分と同じように「おまえ、バカじゃないの」といわれたらわが身に傷がつくからだ。
「私はこんなに物知りだ、どうだ、まいったか」
そんな態度は即刻、やめたいものだ。知ったかぶりしてカラ威張りする人とは、だれも親しくなりたいとは思わない。それが、「知ったかぶりをしたら、賢くなるチャンスを逃すことになる」ということだ。謙虚にものを聞くことができる人に、結局は、人が集まってくるのである。