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button-only@2x 書いて捨てよう、怒りやグチ

むしゃくしゃしたときの発散法…、あなたにも何かあるだろうか。

私のやり方は、、紙に書くことだ。夫婦げんかをしたとき、他人に腹が立ったとき、不愉快な日に遭ったとき、とにかく紙に書く。そして箱に放り投げておく。ゴミ箱ではない。保存用の箱である。

「いつかこれを本のネタにしてやろう…」

という企(たくら)みなのである。

実際にネタにしてもしなくても、これでよし、だ。たまに人様にはお見せできないような罵詈雑言(ばりぞうごん)を書いてしまうこともあって、こういうのはもちろん人目に触れぬよう闇から闇へ葬り去るのだが、書くことと密(ひそ)かな企みにはほくそ笑むことで、さきほどまでにあんなにむしゃくしゃしていたのがウソのように気持ちがすっきりする。

これで翌日には「おはようっ」と機嫌よく朝を迎えることができるわけだ。

またある人は、カラオケボックスで大声で叫ぶのだそうだ。歌うだけでは物足りないので、「ばかやろー!」「わからずやの大ばかもの!」「いまに見ておれ!」と叫ぶ。こんなことはやたらな場所では口にできないが、ここならだいじょうぶと部屋を出る。そのあとに飲むビールの何とうまいことか、という。

ある生命保険会社では「サラリーマン川柳」というのを毎年募集している。これなどもなかなかいい方法である。会社、上司、政治、社会に対するいらだちを川柳にして、笑い飛ばしてやる。飲み屋で悪口をいうより、よほど健康的だ。何より、人を楽しませることもできる。入選した作品を読んでいると、「この人はきっと職場でも人気者だろうな」と思えてくるのだ。

がまんがまん、辛抱辛抱…と、ぐっとこたえるのは立派ではあるが、そんなことで無理をしてストレスをため込んでは何にもならない。あなた自身もつらいし、まわりの人も仏頂面を見せられては気が滅入る。

けれど自分なりの発散方法をいくつかもっていれば、怒りやグチや不満を引きずらずにすむ。不愉快なことがあっても、次の日には晴れ晴れした顔で人に会える。

発散方法をたくさんもっている人ほど、自分もまわりも明るく過ごせるというわけだ。

無理ながまんは、禁物だ。腹立ちは、こまめに発散しよう。

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【目いっぱいの頑張りは、まわりを息苦しくさせることがある】

ある女子大生の話である。

彼女は、志望校に落ち、浪人もできる状況ではなかったので、不本意な大学進むことになった。ここで「もうどうでもいいや」とばかりに遊びまくる学生もいるのだろうが、彼女は違った。

この学校でトップになってやる。

そう決意したのである。それからは必死に勉強したようで、土日も休まず、遊びにも行かず、クラブや同好会などにはもちろん目もくれず、高校の同窓会も断って勉強、勉強、また勉強の日々になった。

ところが一年たったところでふと気がついた。

「大学に入って一年もたつのに、私にはまだ友だちらしい友だちがいない…」これを彼女は、「遊びや飲みに行く誘いを断ってきたから」と考えている。

しかし、それだけではないだろう。

彼女もまた、がつがつと頑張っている人にありがちな、近づきがたい雰囲気を醸しだしていたのにちがいない。

勉強でも何でも目いっぱいやっている人というのは、たしかに立派なのであるが、立派も度を越せば、何だか窮屈な感じが漂う。どこか無理があるように見えるのである。

なかには、

「私はこんなに頑張り屋です」

という姿勢を「これでもか」というほどにアピールしてくる人もいて、こうなるとなおさら息苦しい。こちらの怠惰を責められているような気もしてきて

「はい、わかりました、あなたは頑張り屋さんです。でも私を見逃して…」と書き置きでもしてそっと逃げだしたくなるではないか。

私の持論は、

「人生80パーセントで生きよう」

である。

食事にしろ、腹八分目がいちばん健康的だ。いつもおなかが満タンになるまで食べていたら、胃腸が疲れ、身軽さ、機敏さがなくなり、成人病を招き…といいことはない。満足感は得られるが、満タンまでにはあともうちょっと余裕がある…という八分目は、からだに無理がかからない。

それと同様、精神的にも80パーセントがいい。80パーセントの力で生きている人は、余裕が感じられ、その人と会えば、こちらもくつろぐことができる。

百パーセントの力で生きる必要はない。80パーセントの力で悠々と生きるほうが、長い目でみれば、実りの多い人生になる、これがあなた自身の心を守り、まわりにいる人たちにも心地よさを感じさせるのである。

私もこの年になって、もはや60パーセントでもいいと考えているのだ。

『人に押し付けない人』

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【ありがた過ぎ】ては、親しくなれない

たとえば、職場でだれかに「朦朧(もうろう)という感じはどう書くの?」とでも質問し、相手も知らなかったらとしよう。こういうときの人の反応はさまざまだ。

「○○さんに聞いて」と詳しそうな人に振る。「何でそんなむずかしいこと知りたいの」と突っ込む。辞書を貸してくれる。自ら辞書を引いて教えてくれる…。

いったいどれが人から好ましく思われるだろう。

いちばん親切な「辞書を引いてくれる人」だろうか。じつはそうとは言い切れないのではないだろうか。

その女性は親切でマメな人である。辞書の例でいえば、紛れもなく自ら引いてくれる人で、

「あら、どんな字だったかしら。ちょっと待ってね、いま調べるから」

とか何とかいいながら、自分の仕事はそっちけで調べて、おまけにメモ用紙に書いて渡してくれるような人だ。

人のために何かをすることを厭(いと)わないので、ふだんの好感度はもちろん低くはない。しかし同時に、つきあいにくい…と、身近な人たちはいう。

なぜかといえば、早い話、やり過ぎてしまうからだ。

つきあっている男性が風邪をひいたといえば、飛んでいってお粥(かゆ)をつくってあげる。自分がどんなに疲れているときでも飛んでいく。残業で遅く帰宅して、服を着替えてようやくくつろいでいるときでも、電話があれば「ちょっと待ってね、いますぐ行くから」。相手が「いいよ」といっても行く。「最近、忙しくて部屋がぐちゃぐちゃ」とでも聞けば、やはり飛んでいって掃除をする。

いってみれば、過保護のお母さんみたいな人である。

先回りにして世話を焼き、助けの必要のない領域にまで、手を出し、口を挟む。だれかがひとつ尋ねれば、十ぐらいは答えとお世話を返す。困っている人に手を差し伸べることができるのは美徳ではあるが、彼女の場合、「それほど困っていない人」や「困っているが自力で何とかできる人」にまで、不必要な手をつい差し伸べてしまう。ときには、「これから困るかもしれない人」というのを自分で勝手に想定して、何だかんだと世話を焼いてしまったりもするのだから、こうなるともう、彼女自身が困った人間であるとしかいいようがない。

善意の押し付け。そう受け取る人たちがいるのも無理のない話だ。「ありがたい」と「ありがた過ぎ」の違いは、なかなか微妙なのである。