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button-only@2x その「かたくなさ」が、つきあいにくさの元になる

健康マニアの二人がいる。

食事はできるだけ、自然のものをと心がけ、玄米に無農薬の野菜、魚や植物性たんぱく質中心、塩はどこそこの岩塩だ、砂糖もどこそこの三温糖だと、まあ、じつにこだわる。二人がよれば情報交換に花が咲き、「何々はガンの予防になるんだって」

「何々は血をきれいにするんだって」などの話にで盛り上がる。

しかし、二人には大きな違いがある。

友人と食事に出かけることになったとき、一人はどこまでも健康的な食事にこだわり、友人が誘うところをことごとく否定する。

「あの店は化学調味料ばっかり使っている…そういう料理はこわくて食べられない」「そんなところより自然食レストランへ行きたい」

結局、友人のほうがこの頑固な人に合わせるはめになる。いつもそんな調子なので友人の誘いもめっきり減ってしまった。この人と食事に行けるのは、もはや同好の士だけである。

もう一方の人は、ふだんの食事を管理してはいても、友人と食事をするとなると、まるで違う。

友人が「あそこの店に入ってみよう」といえば、「うん、よさそうな感じだもね」といともあっさり同調し、「あなた、豚肉食べてもいいの?」と聞かれれば

「いいんじゃないの、たまには」と平気で食べる。日ごろのストイックな食生活はどこへやら、友人といっしょのときには何でも来い、である。

「食べ物のために生きているわけじゃないんだから、みんなで楽しむときはみんなで楽しむ。それがいい」

と威勢がいい。さて、どちらがつきあいやすいかといえば、当然、後者である。

食べるものが合う、合わないの問題ではなく、相手や状況に応じて、必要とあれば日ごろのこだわりをいっとき頭の隅においやることができるかどうか、という問題だ。

これだけは絶対に譲れないというものも人間には必要だが、まわりの人間まで巻き込んでもらっても困る。

何かにこだわること、大いにけっこう。かたくななこだわり、どうぞご自由に。

ただし、頑固にこだわった結果、気持ちよくつきあえる人を失ってもしかたがないという覚悟があるのならば、の話である。

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【思い込みを疑い、ちょくちょく更新していこう】

ある会社の営業課長は「型どおりの人」である。

あるとき、この課長の部署に、新人社員が配属されてきた。初日、その新人はたまたま体調がすぐれず、かといって初日から先に帰るわけにもいかないので、無理をして仕事をつづけた。そのようすを見て、課長は「暗くて覇気のなに人間」と思った。

ここからが、課長の本領発揮である。

数日後、新人はすっかり元気になってはつらつと働き出したが、課長の思い込みは変わらない。腹心の部下に「今度きた新人、どう思う?やっていけると思うか」などと、とんちんかんなことを聞く。部下は、「ええ、頑張ってますよ」と答えるが、課長は「そんなことはないだろう、オレの見たところ、どんよりしたやつだぞ」。

こうなると課長の思い込みを変えることはだれにもできない。課長の下についてしまった新人社員は、いつまでも初日に見られた印象のままなのである。

出張の多い課長は、かならずおみやげを買ってくる。まあ、それはありがたいことなのだが、問題はここでもやはり思い込みを変えられないこと。あるとき薄皮まんじゅうを買ってきたら女性社員に好評だったため、それ以来、いつでも、どこへ行っても、薄皮まんじゅうを買ってくることになった。薄皮まんじゅうが名物ではない土地でも、薄皮まんじゅうをわざわざ探す。ほかにおいしいものがあっても薄皮まんじゅう。荷物が多くなったからもっと軽いものにすればいいときでも薄皮まんじゅう。変わることのない課長のおみやげ、薄皮まんじゅう。

「女の子たちは、これが大好きなんだよね」と、満足そうに包みを開ける。

こういうときにだれかが「たまにはおせんべいもいいな」といっても、「そんなこといって太るの心配してるの? 薄皮まんじゅうがいちばん好きなくせに」と、からかう。課長自身が消せない思い込みを、他人が変えられるはずもない。

こういう人は、現実が見えていない。最初の思い込みのまま行動しているだけだ。現実は変わる、人の態度や気持ちも変わるということがわかっていない。

「あいつ、第一印象は悪かったけど、ほんとうはなかなかやるじゃないか」「いつも同じおみやげじゃ飽きるだろう」と修正できる人には、現実が見えている。こういう人が柔らかい人間関係を築けることはいうまでもない。

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【その人のよさは、理屈ではなく感覚でわかろう】

先ほどの課長の問題はもうひとつある。

「若い女性は甘いものが大好き」

「若い女性は太ることを心配する」

「近ごろの部下というのはこういうものだ」

と、要するに十把(じっぱ)ひとからげで人をくくるのだ。

現実が見えていないから、あんこが苦手な女性がいることにも気がつかない。

「私は辛党」という女性がいれば、

「きみ、変わっているね。女の子なのに」

とくる。ついでにいえば、若い女性はみんな「女の子」である。若い男性はみんなサッカーが好きなものだとも思い込んでいるから、「いやあ、あれ、めまぐるしくて見ているだけでつかれちゃうんですよ」という部下には、

「何だよ、いまどきの若いもんが…」

とくる。仕事の面でも「近ごろの部下気質」とひとくくりにしてはまずいという発想もない。この人の頭の中にあるのは、「若い女性」とか「若い男性」とか「主婦」とか「公務員」…といったグループの最大公約数のイメージだけだ。そして、その枠の中にまわりの人をはめては、ひとり納得する。

「うんうん、世の主婦っていうのはこういうものだから」

「近ごろの若い男には、こう接しておけばいいだろう」

好感を持たれる人はどうか。あなた近くの、人に好かれる人を思い浮かべてほしい。

ひとりひとりの個性をちゃんと見ている。相手の性格に応じて対応できる。この人の好きな物、あの人の好きなものを、知っている。Aさんにはこういうと喜ばれるけれど、Bさんはイヤがる。Cさんにはこんないい面があって、Dさんにはそれが欠けているけれど、そのかわりあんなにいいところもあると認めている。多数派ではないけれども、その人を「変わり者」扱いしない…そういうふうに、まわりの人たちを個別の人間として見ているのではないだろうか。

だれでも十把ひとからげでくくられては気分がいいはずもない。私たちは大量生産のロボットなどではない。好みも行動も考え方も、それぞれが異なる。

好かれる人はそのあたりのことが、理屈ではなく、感覚でわかっている。