【人生の計画はいくつあっていい】
— じっさいに人生の予定表を書いてみる —
自分の人生の計画といっても、恐らく漠然と、「50歳までには…」「60歳になったら…」といったイメージを描いているだけという人がほとんどでしょう。
一度、真っ白い紙に自分の人生の計画表を本当書いてみることをお勧めします。というのは、他人の人生についてはいろいろと知っているのに、自分自身の人生について、あまりにも無頓着だったことがそこからわかるからです。
私たちは他人の人生はよく見ています。とくに医大といわれるエジソンやヘレン・ケラーなどの人生は、よく見ています。とくに偉人といわれるエジソンややヘレン・ヘラーなどの人生、子ども時代から熟知しているのではないでしょうか。
ところが、自分の人生をどう歩んできたのか、それはどういう方向だったのか、そしてこれからどちらに向かっていくのかということを、ゆっくり考える機会があまりにも少ないと思うのです。
自分の人生計画というと、あまり具体的に考えたくない、という気持ちがあることもわかります。資格を取ろうとか、絵を描こうとか、細かい目標はあっても、長期的な人生の計画を考えていないのです。
確かに、人生をひとつと考えると、計画を立てることは息詰まる思いがあります。ここは、いくつかの人生の計画を立ててみてはいかがでしょうか。その中には、50歳までに宝くじを当てて余生はハワイで暮らす、という計画があってもいいのです。
アメリカに渡って、事業を展開するという計画があってもいのです。
アメリカに渡って、事業を展開するということも不可能ではありません。これは、ソニーの創業者が本当に実行し、成功したことでもあります。とにかく、想像することはタダですから、どんどんイメージをふくらませましょう。
家族みんなにイマジネーション作りに参加してもらうのも楽しいかもしれません。うんとポジティブに考えればいいと思います。
そして、いくつかの計画を改めてゆっくりと眺めると、その中に実現可能な道筋が見えてくると思います。その計画の実現に必要な準備も見えるでしょう。
たとえば、宝くじを当ててハワイに住むとしても、少しは英会話ができないと不便きわまわりません。とにかく、いろいろとやるべきことが生まれてきます。
じっさいの人生はひとつかもしれませんが、イマジネーションを広がらせれば、いくつかの人生を生きたのと同じくらいのバリエーション豊かな経験ができるのです。
【電話のコードを抜いてしまえ】
— 社会のつながりだけがアイデンティティではない。–
携帯電話が普及したお陰で、どこでもかしこでも電話で話している人がいます。歩きながら大笑いしている人、口元を覆って、ひそひそと話している人、一心不乱に「メール」を打っている人など、じつにさまざまで、話し声が迷惑だと感じるとき以外は、人それぞれの情景が見ていて興味深いくらいです。
電話とは、自分がだれか他の人とつながっているというアイデンティティなのでしょう。携帯電話を持ちつけると、家に忘れたりしたら一日不安でならないといいます。
持つ前はなくてもまったく平気だったはずなのに、それがないとひとつのつながりが切れるように感じるのでしょう。
いつでも、だれとでもつながるという携帯電話がなくなることが、不安だというのはひとつの依存症といえるかもしれません。
電話が固定電話だけだったときには、明らかに電話が社会と自分の唯一のつながりでした暇なときに電話が鳴ると、だれからだろうと期待が半分あるように思うし、夜中にかかってくると、なにか問題があったのだろうかと不安を感じます。
そう考えると、電話によって自分が社会とネットワークされている、というのが実感でしょう。
留守番電話というのも、電話の使い方を変えたりかもしれません。留守電にメッセージを録音できることで、気楽にいつでも電話ができるようになるということに加えて、電話に出たくない人からの電話だったら、そのまま留守電にしておいて、出ないという選択肢もできたのです。
たとえば、家族と団らんの時に電話がかかってきて、それに出ることが家族の雰囲気を壊してしまうようであれば、留守電のままにしておかえばいいわけです。必要ならメッセージを残すだろうし、急ぎでなければ電話を切るでしょう。
電話がかかってきたら出なければならないという観念は、この留守電によって破壊されているのです。
電話に神経を使う人は、電話は通信の手段でしかないということを再確認すべてです。自分のアイデンティティは、電話のこちら側にいることではない、ということです。なんなら、コードを抜いてしまって、電話から自由になるという方法もあります。
【欲をいえばきりがないことを知る】
— 「こうなりたい」に限度を設定する —
人間の欲望はきりがないものです。身近な例でいうと、テレビだってもっと画面が大きいほうがいいし、冷蔵庫も大きいほうがいい、などという小さな欲望もあれば、子どもにしてみれば、中学生になったら自分の部屋が欲しいとか、お父さんとしても小さくてもいいから自分の書斎が欲しいなどという欲望があるものです。
その欲望を実現できるだけの努力を本人がするのであれば、多少の欲があることもいいことなのでしょうが基本的に欲望にはきりがないのですから、どこかで折り合いをつけなければなりません。
とりあえず、家庭の責任者としては、家族みんなが健康で、とりあえず生活上の問題がなければよしとしなければならないでしょう。日々の細かい生活上の問題はあるでしょうが、それは、厳しい政治・経済状況の今の日本の社会全体から眺めれば、本当に大したことではないはずです。
そういう、いわば保守的な気持ちの半面、人間はどこまでも発展していきたいものでもありますから、新しい取り組みを考えたりもします。それも欲です。
もっともお金が儲かるような別の仕事をしたらとか、今のうちに仕事につながる資格を取って、思い切って転職したらとか、いろいろな欲がからんだ「もしかしたら」の事例を考えることができます。
とにかく最低限、忘れてはならないことは、今の自分の生活を保証しているのは、まさに今やっている仕事であるということです。
中には、それを社会的な評価の低いものとして認めたがらない人もいますが、評価が低くても、それなりにそれまで自分の生活のバックボーンとなっていた仕事なのですから、そう頭から否定するようなことはしないほうがいいでしょう。自分の過去を否定したところで、そこからは何も生まれません。
それより、これからどんな自分になりたいのか、社会も発展しません。欲に段階を付けて、「第一段階の欲」「第二段階…」とレベルを設定するのもひとつの方法です。
どんなレベルの欲をどういうふうに抱き、どう実現していくかがポイントでしょう。