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button-only@2x つらいことはいつか過ぎていく

【楽しいことは早く過ぎ、つらいことはゆっくり過ぎる】

人間は忘れる動物だと言われます。野生動物のよに、経験したことをすべて明瞭に記憶していて、ひとつひとつに神経をとがらせていたら、現代社会では、心がとてもではありませんがもたないのです。

野生動物の情報量と、人間が社会生活を送っていく中で蓄積する情報量は、まさに雲泥の差があります。

野生動物の情報は、それがなければ生きていけないようなギリギリのものでしょうが、人間の情報には、よけいなもの、本当はその人には生きていく上で必要がないものをたくさん含まれているのです。

だからこそ、人間は、ある程度ものを忘れることが生きていく上で大切になる、と言われるのです。

まず第一に、生まれてこのかた、身内や親友などの死に接したときの悲しみをすべてそのまま引きずっていたら、とてもではありませんが、耐えることはできないでしょう。

悲しみは、いつか薄れていくものです。

そうでなければ、人間は一生悲しみの中で生きていくことになってしまうでしょう。

たとえば、ちょっとしたケガをしてもそのケガは数日で跡形もなく消えてしまいます。ケガがいつまでも残っていたら困ってしまいます。

それと同じように、、心の問題も「いつかは過ぎ去る」「いつかは忘れられる」と考えることが心にとっていちばん健康的だと言えるでしょう。

反対に、楽しいことというものは早く終わってしまいます。それは、その出来事、イベントが楽しいから、時の経つのを忘れるほどだったわけです。

では、逆につらいことがあっても、「いつか過ぎ去る」「いつか終わる」と考えて。楽しいことと同じように前向きに考えたらどうでしょう。

どんなひどいケガでも時が経てば治るように、どんな病気もきちんと養生(ようじょう)すれば治るように、そして、人生や仕事、家族の問題があっても、それは一時の問題です。大切なのは必ずいつかは解決の日がくるということです。

人を憎むことがあっても、またいつかは愛することあるかも知れない。憎いと思っていた人が、本当はあなたにとってもっとも重要な愛すべき人かもしれないのです。

すべては、うつろいゆくものだということがわかれば、前向きになれるでしょう。

【苦しいときににもなにか喜びがある】

— 親戚や家族との関係に救いになるものを見つける —

自分には、なにもいいところがない、長所もないと考えている人でも、なにかひとつくらい人にアドバイスができることもあります。

たとえば、小さい頃遊んでやった親戚の子どもが、今まさに、成長して、社会に出ようとしているようなとき。そんなときに、人生の先輩としてなにかちょっとした言葉なり、人生訓なりを与えたいものです。我がではなくても、親戚であればその人の社会人デビューにはどこかで関わってきただろうし、これからも関わるでしょう。親戚のみんなが顔を合わせる席が、もし、親族のだれかの葬式だとしても、それはかけがいのないチャンスだといえるでしょう。

そこで、あなたは、自分の苦しみを癒すなんらかの「きずな」を見つけると思います。自分が苦しいのは、恐らく「ひとりで頑張っている」からでしょうから、力になってくれる人々の懐かしい顔を見るだけで、あなたは、「よし、もう一回頑張ろう」と思えるのではないでしょうか。

久しぶりに訪れた親戚の家で、あなたは、なにも気を使う必要はありません。ただ、「あの木は、前より伸びたねぇ」「思ったより枝が張ったね」「この花はきれいに咲いたね」と言えばいいのです。

そこで、、きっと親戚も、連れて行った子どもたちも、血縁のつながりを感じるでしょう。なぜなら、その家の人たちとは、庭の木が幼いときからのつきあいだからです。

そんな親戚がどこにもないという人は、これからそういうつきあいを作ればいいのです。ほんの小さな共通意識、連帯感でいいのです。苦しい、つらい、というときに、それをストレートに話せる相手、ということです。

それは隣近所のおつきあいでもいいし、職場の友人でもいいでしょう。苦しいときにそれを察してくれる人は、パートナーとしての配偶者以外にも必要なのです。

「喜び」はどこにでもあるものです。つらいとき、苦しいときに手軽に自分の気を紛らわせてくれる「喜び」は用意しておいたほうがいかもしれません。いざというときには、まわりを見回す客観性が失われているかもしれないからです。

とっておきの「喜び」は落ち込んだときの特効薬です。

【ほんのわずかでも進歩があればそれでいい】

イヤなことの数と同じくらい「少し進歩」する

考えるのもイヤなことというものは、だれにでもあるものです。外で接しているときには明るくて気さくな人でも、自宅に帰ると不機嫌な人にガラリと変わってしまうこともあります。

自宅になにかイヤなことが待っていたりすると、条件反射的に気分が沈んでしまう、ということもあるようです。

たとえば、自宅に自分の居場所がないと感じているとか、子どもたちが元気なのはいいけれど、あまり騒ぐので自分のための落ち着いた時間が取れないとか、そういった、言ってみれば些細なことも原因になります。

そういう些細なイヤなことは「少し進歩」することで打ち消すことができます。無理をして「居場所を作ろう」とか「子どもたちを静かにさせよう」としても、簡単にはうまくいかないでしょうから、別の方法で「進歩」するのです。

逆療法ではありませんが、居場所がないと感じるならいっそのこと自分の気配まで消してみるといいでしょう。仙人のように姿が見えなくなるわけです。これはこれで、大きな「進歩」ですが、きっと反対に、自分が家族の中でどういう場所にいるのかが感じられると思います。

子どもたちが騒ぐ? それは彼らの仕事ですから放っておきましょう。これにも逆療法があります。いっしょになって騒げばいいのです。子どもたちとコミュニケーションにもなり、いい運動にもなります。これも大きな「進歩」です。

家族のだれかが怒り出すかもしれませんが、それもその人の仕事です。怒られたら素直に謝りましょう。どうして子どもといっしょに騒いだのか聞かれたら、正直に説明しましょう。きっと、これもいいコミュニケーションなるでしょう。家族もまたまた「進歩」します。

イヤだイヤだと考えているだけでは、よけいに「うっ屈」してしまいます。イヤなことがいくつあるか数えて、同じくらい「少し進歩」すれば、イヤなことが見えなくなることも多いのです。

もしイヤなことにはっきりとした原因があれば、やはり家族みんなで相談して、みんないっしょに「進歩」することも考えましょう。ただし、あくまでも、無理なく、低い方へと水が流れるように、自然に「進歩」するまで放っておくのがコツです。

【マイナス思考になるのはなぜだろうか?】

–ちょっとした訓練で「ゼロ思考」に戻す–

ひとつのことを達成するために努力してみよう、とか、自分でこれを解決してみよう、というのがプラス思考だとすると、マイナス思考とは、「努力してもムダ」「解決できない」と考えることになるでしょう。

それでは、なぜ「努力してもムダ」なのでしょうか。本当は、「努力したくない」というのが本音かもしれませんが、それも、根本にあるのは「達成した経験、達成して喜びを感じたことがない」からかもしれません。

動物は一度失敗すると、二度とチャレンジしないものです。一度食べた柿がが渋かったら、甘い柿も食べなくなるかもしれません。

ヒトは、一度失敗したとしても、方法を変えてもう一度チャレンジすることができます。スタート地点に戻る、それが「ゼロ思考」です。ゼロの位置からもう一度チャレンジして、成功を手に入れると、チャレンジのコツがわかるのです。

つまり、「努力してもムダ」と考えるのは、「成功する、達成するコツがわからない」ということかもしれません。

もうひとつの「解決できない」と考えるのはどうしてでしょう。こちらも本音は、「関わりたくないから」ということになるでしょう。

たとえば道ばたに空き缶が落ちている。これは最初から落ちているのではなくて、だれか人間が捨てたものでしょう。それを見て、拾って空き缶ボックスにきちんと捨てる人と、ひどいやつがいるな、とだけ思って通り過ぎる人がいます。

空き缶を拾わない人は、自分がそんなことをしても空き缶を捨てる人はいなくならない、と考えるのでしょう。いつからそう考えるようになったのでしょうか。子どものころは道ばたにものを捨ててはいけない、落ちていたら拾ってゴミ箱に捨てよう、と教わり、実行もしたことがあるでしょう、

一度、素直な子ども時代の「ゼロ思考」に戻すと、なぜ自分が空き缶を拾わなくなったのかがわかるでしょう。いったん、今のおとなの考え方をストップして、ゼロからスタートすれば、マイナスよりもプラスに近いのです。

ゼロ思考に戻すには訓練が必要です。自分を客観的に見ること、そして、心をいったん白紙にすること。

それを心掛けることです。