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button-only@2x 自分にウソをついていないか?

–心に霧がかかるのは本心を見たくないからだ–

昔から哲学では、自分とは何か、人間とは何かといったことが命題とされてきました。デカルトの「われ思う、故にわれ在り」はパスカルの「人間は考える葦である」、プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」などが知られていますが、自分の存在のことでさえみんな悩んできたのです。

そう思えば、哲人でもない私たちが、自分のことで思い悩むのは当然といえば当然のこと。そう簡単に悟りが開けるわけはありません。

ただ、現時点での自分の考えさえははっきりとしない、というときには、原因がひとつ考えられます。それは、自分にウソをついてはいないだろうか、ということです。

自分にウソをつき、本心を覆い隠そうとすると、霧がかかったようになって、どこにいこうとしているのかさえわからなくなることがあります。

たとえば、自らの生き様について、これでいいのだ、と納得させようとするあまりに、ムキになって仕事に熱中してしまうような時、ふと我に帰ると、自分が何のために頑張っているのかがわからなくなる、ということがあります。

仕事か家族か、はたまた趣味なのか、背伸びをしすぎたり無理をしたりするのは、やはりどこか自分にウソをついているからそうなるケースが多いようです。

日本には、禅というすばらしい「自分との対話法がありますから。一度、落ち着いてゆったりと自分の心と対話をするといいでしょう。座禅のような正式なものでなくてもいいのです。静かなところで、いつまでも自分を見つめられる環境であれば、ただ、腰掛けて目をつぶるだけでもOKです。

きっと、頭の隅には仕事ややっかいなことがたくさん浮かぶでしょうが、その中から自分の心を見つけだします。自分が本当はなにをしたいのか、どの方向に行きたいのか、どんな方法を選びたいのか、自分自身に聞いてみます。

自分を必要とする人や自分にとって必要な人を思い浮かべてもいいでしょう。その人たちはきっと何かを教えようとするはずです。心の中の過去の自分はどんな表情をしていたでしょうか。そのころ、未来はどんな自分になろうとしていたでしょうか。

自分にウソをつかず、素直に過去から現在までの自分の心をたどってみると、自分が本当に望むもの、そして、できることが見えてくるはずです。

【連れ合いはなぜそこにいるのか、と考えてみる】

連れ合いとの心の距離は、自分との心の距離

愛している人は今どこにいるでしょうか。親、兄弟、子ども、配偶者=連れ合い…。みんないっしょに幸せに暮らしているという人はほとんどいないでしょう。とくに、親とはしばらく音信もなかったり、子どもは独立して、たまにしか顔を見せなかったりということもあります。

離れていても、いつも心の中で心配していれば、心の距離は遠くはありません。とくに我が子のことを心配しない親はいないのですから、親は子どもを、子どもはその子どもに我が子のことを心配しない親はいないのですから、親は子どもを、子どもはその子どもを、つねに思っていることになり、結局、みんなどこか「きずな」で結ばれています。

一方で、連れ合いはすぐそばにいても、心が離れていることもあります。家事や仕事にかまけて、お互いのことをあまり考えていないかもしれません。

連れ合いと親友はどこが違うでしょう。長年の親友だったら、二、三か月間その親友のことを忘れていることもあるかもしれません。けれども、連れ合いのことをすっかり忘れるということはないのです。

もし、なんらかの理由で離れて暮らしていても、親子と同様に「きずな」で結ばれているはずです。ところが、毎日顔を合わせていると、お互いが空気のようになって、あたかも存在しないかのようになりがちです。

反対に、相手の存在が気になって、少し息苦しく感じられるというカップルもあるでしょう。

そういうときは、お互いの心の距離でもあります。なぜなら、自分は連れ合いを愛したからいっしょにいるわけで、今、それを忘れているとしたら、過去の自分をどこかに置き忘れているのかもしれません。

連れ合いとの心の距離を確かめることができたら、つぎに連れ合いのご両親に対する感謝をあらわしましょう。そのすばらしい連れ合いを、この世に生みだして、自分に授けてくれたのは、その人たちです。

感謝の気持ちを伝えることで、自分の心の中に過去の自分の愛が見えるはずです。