女心というのはわからないと、わかっているようなことをいっている男性諸氏。そんなことをいっていていいのですか、といっておきたい。
知り合いの男性は財布を、いくつももっている。デパートにゆくたびに、観光旅行をするたびに、どうしてか財布ばかりを買って帰ってしまうのだそうだ。やはり「こんなにたくさん財布をもっていたって仕方ないのにねえ」と、みずから反省しながらも、なかなかやめられない。
この男性も、お昼ごはんは5百円以上するモノは絶対に食べないと宣言しているほどの、倹約科だ。
まあ、あまり無理をしないほうがいいのではありませんか。
もちろんお金はムダ遣いしないほうがよい。
要らないモノが、家の中に溜まってゆくことも防ぎたい。
しかし、そのことにあまり神経質になりすぎると「ストレス性ムダ遣い症候群」といった現象を引き起こしかねない。
ムダ遣いしない、そしてモノを溜めないということも、自分に無理のない範囲で、自分らしく、ゆとりをもって取り組んでゆくのがよい。
5章 モノに囲まれると心は貧しくなる
「得る」より「捨てる」ことに幸せ感がある
長い人生の中で「得る」ことよりも「捨てる」ことのほうが、幸せな心で暮らしてゆくためには大切であると気づくのは、さて何歳ぐらいからだろうか。
人生にはターニングポイントがあるのだ。
いま「得る」ことに夢中になっている、みなさん。あれもほしい、これもほしい、あれも揃えておきたいと、購買意欲に燃えている、みなさん。わずかなモノしかない暮らしなんてみじめだ、モノはたくさんあったほうが幸せだと思い込んでいる、みなさん。みなさんもいずれ、たくさんのモノに囲まれているよりも、必要最低限の、わずかなモノを愛おしんでゆく暮らしのほうが、ずっと幸せなことに気づき始める。
とはいえ、そんなに年老いてからの話ではない、
早い人は、二十代から。三十代後半から、ぼつぼつ。四十代になれば、もう少しはっきりと。そして五十代になればもう、否応なくそう意識せざるをえなくなる。
むかしであれば四十代にもなれば、隠居をしたそうだ。
もっているものは財産も何もかも若い人たちに譲り渡して、自分はすべて捨てた身軽な身となって、体ひとつでどこか静かな土地へ引っ込んで余生を送る。
隠居などというと、いまの人たちは、何かうら寂しい、侘しい、それこそ年寄り臭い印象を抱く人も多いのかも知れないが、それは違う。むかしの人は、もっと前向きでハッピーな気持ちで「捨てた」のだ。
さあ待ちに待った隠居生活だぞ。これからは、好きな酒をうんと飲むぞ。だれはばかるところなく、朝から飲んでやるからな。毎日、客席へも通ってやるぞ。芝居見物へもゆくぞ。春は花見で、夏は舟遊びで、秋は紅葉で、冬は雪見で遊び放題、と意気揚々たる心境ではなかったと思うのだ。
たしか『菊と刀』のルース・ベネディクトだったと思うが、おもしろいことをいっていた。
日本人は、ひとつには子供の頃、もうひとつには年老いてからの暮らし、このふたつの時期が人生の中でもっとも幸せな時期なのだと感じているようだ。なぜならその時期、あくせく働く必要もなく、世間のしがらみに縛られることもなく、人生でもっとも気ままで自由な暮らし方が許される。気ままさ、自由さに幸福感を味わうのが日本人の人生観だ、というのだ。
一方、欧米人は、人生の中でもっとも幸福だ、充実していると感じるのは壮年期、いわば働き盛りの頃だと思っている。
ばんばん働いて、ばんばんお金を稼いで、いい家に住んで、でかい車に乗って、夢をかなえてゆく。そんな暮らし方に幸せを感じる。財産や地位、たくさんのモノに恵まれてこそ、望むことはなんでもできる。
子供の頃は、そして老いてしまってからは、もう財産や地位もない。何かしたいことがあっても実現できない。だから幸福ではないのだ、と欧米人は考えるのだという。
そんなことをいわれると、なんだか日本人というのはとても怠け者の国民性のように見られていたようにも思われるのだが、なにそんなことはない。
日本人はむかしもいまも、至って勤勉な国民だ。まじめに、よく働く。決して怠け者ではない。
しかし三十代四十代のその働き盛りに、充実した幸福を感じながら暮らしているのかといえば、たしかにそうともいえまいとは思うのである。
日本人は「捨てる」ことで幸せな暮らしを得てきた
三十代四十代の人たちに意識調査などを行うと、「いまの暮らしに満足している」「いま幸福だと思っている」と胸を張って答える人など、むしろ少数派だ。
大多数の人たちは、何かしらの不満をもらす。
そんな日本人に欧米の人たちは、さすがに日本人はエコノミックアニマルだ。これだけモノに恵まれた生活をしながら、さらに、もっとモノに恵まれた生活を望んでいるのか、と思うかもしれないが、そうではないだろう。
モノではなく、日本人はもう少し「心」についてのことをいっている。
いま日本人の四人にひとりがうつ病か、うつになりかけている状態だといわれている。そしてその大半が、ちょうど働き盛りの年代の人たちだ。これは男女を問わない。
そういう状況からも、この年代が働くことへ意欲満々、また実際によく働きながらも、またモノに恵まれた暮らしをしながらも、いかに「心が幸せでないか」がよくわかるではないか。
これは皮肉なことだが、日本人が勤勉でまじめであることが、かえって災いしているのだ。勤勉でまじめであるだけに、心に加えられるストレスが大きくなる。
ちょっとした仕事の失敗をクヨクヨ悩む。また、勤勉な人ほど、将来に楽観的になれない。ああでもない、こうでもないと心配ばかりしている。まじめな人はまた、責任感の強い人でもあるが、そのために仕事へのプレッシャーも大きい。
人間関係においても色々と思い悩む。
自分のしたことは相手にとって有益だったのだろうか、自分は周りの人たちからどう思われているのか、どうして自分はこう人間関係がヘタなのだろうと、そういったことに必要以上に心を惑わす。
ところで私は、いまなお吉田兼好や鴨長明、西行や芭蕉といった古典的な人物の生き方に、現代の日本人が強い関心と憧れを抱くのを、おもしろいことだと思ってきた。
いずれの人たちも、いわば隠居的な人生を送った人である。
地位も財産も、家財道具も何もかもすべて捨て去って、一方は山谷の侘び住まい、
一方は漂白の旅に出た人である。
仕事の失敗をクヨクヨ悩んだり、将来のことを心配したり、プレッシャーに押しつぶされそうになったり、人間関係にふりまわされる暮らしなどとは、まったく無縁であった人たちだ。
「得る」ことで幸せを追求した人たちではない。
「捨てる」ことで自分らしい、気ままな、自由奔放な幸せを得ようとした人たち。
きっと伝統的な日本人の幸福感といったものが、これらの人たちの人生に集約されているのだろう。
ムリに得ようとするから、もの笑いの種にされる
ちょっと角度を変えて、話を進めてゆこう。
ときに日本人は欧米人から皮肉をいわれたり、もの笑いの種にされたりすることがある。
先ほどの「エコノミックアニマル」という言い方だって、そうである。日本人がエコノミックアニマルなら欧米人はどうなのか。日本人同等に、いやそれ以上にエコノミックアニマル、いや、エコノミックザウルスなのではないか。
日本人は労働時間が長いということをよくいわれるが、これもそんなことはない。
比べると、アメリカ人のほうが長時間労働だという統計もある。
ニューヨークの五番街やパリのシャンゼリゼ通りを、両手いっぱいにブランド物の紙袋をぶらさげながら闊歩(かっぽ)してゆく日本人の姿に、冷ややかな目を向ける欧米人もいるそうである。「あんなに買い込んじゃって。日本人は買い物が好きねえ。お買い物ツアーってのが、あるらしいわよ」というわけだ。
反論しておこう。欧米人だって日本へくれば、買い物に興じているではないか。浅草の仲見世など、すごいものである。
そういえば日本人のカメラ好きも、よく話題にされる。たまたま観たイタリアの映画に日本人が出てきた。ビジネスマンの一行なのだが、それがみんな首からカメラをぶらさげている。以前は欧米人の多くが日本人はいまだにチョンマゲを結っているのだと信じていたそうだが、さすがにそういう誤解は解消されたものの、いまは日本人といえば、みな首からカメラをぶらさげていると思われているのだろうか。
私もむかし、精神科医の団体で、海外の病院を視察にいったことがある。その際カメラでそこらじゅうパシャパシャ写真を摂る私たちの姿を見て、「あなた方は、副業でカメラマンをしているのですか」といたい皮肉をいわれたことがある。
「視察」などというと、ひとつでもふたつでも勉強になること参考になることを収穫してこなければと躍起になる。そこでカメラ、パシャパシャになるのは、これも勤勉でまじめな日本人の悪い癖かもしれないが、ちょっと待てよ、といいたいのだ。
日本にやってくる欧米人も至るところで、かなりパシャパシャやっているではないか。
それにしてもグローバル化のこの時代、日本人だって欧米人だって、それほど変わりないことをやっているというのに、どうして日本人だけがこうも皮肉をいわれたり笑われたりするのか。
それはきっと、日本人が「自分に似合わないことをしている」と欧米人の目に映るからなのではないか。。