心配事にとらわれると、何も手につかなくなることがよくある。先のことに悲観的な予測をしては落ち込んだり、過ぎたことを反芻しては悩んだり。こういう心配が長引くと、行動が「休業状態」になる。
いいアイデアも出ない人が、どんなに時間をかけて考えても何の効果も上がらないことを「下手の考え休むに似たり」と言うが、”下手の心配”もまた休むに似たり。
ただ心配に時間をかけるだけで、休んでいるのも同然である。
時間をかけて心配をすれば物事がうまく運ぶのなら、いつまでだって心配する価値もあろうが、けっしてそうはならない。単なるのムダ遣いに終わるのが関の山だ。
先ほどもお話したが、悪くすると心配の内容が”言霊”となって、予想以上に好ましからざる事態を招くことにもなりかねない。とても損をするのだ。
誰だって、みすみす損をすることをしたいとは思わない。日々、心のどこかで「トクをしたい」と思って行動している。
そういう心理を利用して、心配事に取り憑かれそうになったら、自らに「心配してトクすることは何かある?」と問いかけてみることを、私はおすすめしたい。
答えは自ずと知れている。「いや、何もトクしない。心配がいっそう募るし、気分が落ち込んで、何をするのも億劫になる」に違いない。
これが認識できれば、さすがの”心配性さん”も、むやみに心配する気持ちが失わせてくるはずだ。
そうなったら今度は、「じゃあ、トクするにはどうすればいい?」と尋ねる。すると、思考回路のスイッチが、「心配モード」から「心配対応モード」に切り替わり、心配事を解消するための行動を促す思考がスタートするのである。
こういう損得勘定をすると、”下手の心配”は、たちまち”上手の心配”になる。心配しただけの成果が上がるというものだ。
あとになって「心配して損をした」となるより、「心配してトクをした」と言えるほうが、人はずっと幸せになれる。
心配事が生じたら、「トクすることは何かある? どうすればトクをする?」と自らに問いかけ、幸せを求めて前進しようではないか。
— 心配、悩みをためこまない2つのテクニック —
▽「セルフインタビュー」で気持ちの整理をする
まえにも述べたように、心配事というのは頭の中で考えていると勝手に膨れ上がるものである。これを阻止するには、ちゃんと言葉にして吐き出してやることが必要だ。
話すことについては、一つは「ひとりごとを言う」という方法がある。ただ、ぶつぶつとつぶやいているだけだと、「心配なんだ」から先に進みづらい。鏡の自分と会話する形式で行なうと、より効果的だろう。
これを私は「セルフインタビュー」と称しているが、自問自答を繰り返すことによって、確実に心配の実像が整理されてくる。
たとえば典子sだん(43歳)は、お世話になった方の追悼式に出席するまえに、こんなセルフインタビューを行った。
「何を心配しているの?」
「故人と共通の知り合いがいないから、しゃべる相手もいなくて浮いちゃいそうなのがすごく心配なの」
「ほんとうに誰も知り合いがいないの?」
「行ってみなくちゃわからないけど、いない確率のほうが高いな。遺族の方とお会いしたこともないしね」
「それじゃあ、欠席すれば?」
「それはダメよ。葬儀は身内の方だけだったから、私、招待状をいただくまで、亡くなったことも知らなかったのよ。ちゃんとお別れの挨拶をしたいんだもん」
「目的はそれ? ならば、知り合いがいなくても、困ることはないじゃない」
「そりゃそうだけど、会食の間、ずっと一人ぼっちでどうしてればいいのよ。私、人見知りするほうだから心配だわ」
「お友だちをつくりたいの?」
「ぜんぜん。お別れをしたいだけよ」
「なら、お別れして帰ってくることもできるんじゃない?」
「そうね、様子を見て、あんまり溶け込めそうもなかったから、途中で失礼しようか。うん、そうしよう」
典子さんがこのセルフインタビューにトライしたのは、式典の二週間ほどまえのこと。出席の葉書を投函(とうかん)した直後だったそうだ。
彼女は「もし、漠然と心配していたら、当日までずっと心配は消えなかったと思う。ふと思い出しては心配することを繰り返す、みたいな感じだ。心配事があるときって、いつも私、そんなふうだったから」と振り返る。
彼女は、気持ちを整理し、目的を明確にしたことで、臆することなく会場に向かえたのだ。
しかも、彼女が心配した通り、会場には知った顔がなく、誰とも話せなかったが、「お別れをする」という目的を達成した満足感は得られた。おかげで、「どうしよう、一人だわ。誰かに話しかけなきゃ」とドキドキすることも無かったという。現実を受け容れる心の準備が整っていたからだろう。
「いまでは、セルフインタビューが”病みつき”になって、何か心配事があると、鏡の自分に『何が心配なの?』『どうして心配なの?』『やろうとしていることの目的は何?』『どうすればいいと思う?』」と自問自答しながら、気持ちを落ち着けています。
セルフインタビューなんて、せいぜい10分ほど。いままで心配事を長々とため込んでいたことを思えば、ずっとラクチンです。」
と典子さん。
鏡の中の自分に話かけることに抵抗がある人もいると思うが、これは、ようするに慣れの問題。誰かに見られているわけではないのだから、何も心配することはないのである。
また「話すことによる発散法」にはもう一つ、誰かに心配事を話すという方法がある。これにより話しているうちに考えがまとまってくる効果を狙う。
私のところへやってくる患者さんの中にも、悩みをしゃべることで解決策を見出す人が多い。
私は「そうですか」と話を聞いているだけなのだが、患者さんはどうも、言葉にして話すうちに、曖昧模糊(あいまいもこ)とした考えがハッキリしてくるようだ。おそらく、話すために論理的な思考ができるようになるからだろう。
ただ、注意しなければいけないのは、話す相手に同じ”心配性さん”を選ばないこと。心配がいっそう深まってしまう危険がある。心配事を相談するなら、軽すぎない程度にノーテンキで前向き、明るい性格の持ち主である友人、または聞き上手の友人がベストだ。
そういう人なら、”心配性さん”には思いつかなかったような別の視点から物事を見るきっかけを与えてくれたり、「それは心配だろうけど、いまのうちに手を打ちゃ、悪いようにはならないさ」とか、「そんな問題、ぜんぜん気にすることないよ」などと言って”心配性さん”の気分をラクにしてくれたりするに違いない。
たいせつなのは、心配事の内容をハッキリさせること。自分の中でマイナス面を過大評価してしまわないよう、言葉にして発散させたい。
▽「はらたち日記」でネガティブ思考を追い出す
私は「はらたち日記」という小さな日記帳を持っている。このタイトルは若い方はご存じないかもしれないが、島倉千代子さんの住年のヒットソング「からたち日記」からとったもの。腹が立ったことや悔しかったこと、つらかったこと、心配事などを日々書き連ねている。
何のためにこんなことをしているかと言うと、時分の中にあるネガティブな感情を「書く」という行為によって、いったん自分の頭の中から追い出してしまうためだ。
ワガママだった母と妻の間に立って苦労したり、病院経営に悩んだりして誰にも言えない事を思いっきり吐き出すのだ。日記上なら、たとえ人を殺してもいくら悪口を書いても罪になるわけではない。
こういうネガティブな感情をぐっと呑み込んで耐えるのは、精神衛生上好ましくない。心の中が「不快」でいっぱいになり、何に対しても、しだいに無気力になっていく。
実際に書いてみるとわかるが、ひじょうに気持ちがスッキリする。と同時に、悪感情を外に追いやることにより、「不愉快な思いをした出来事」や「イヤナな予感がする先のこと」などと、距離を置いて向かい合うことができる。
そして、冷静な気持ちで反省したり、分析をしたりするうちに、「よし、がんばろう」と発奮する気持ちが湧いている。
また、文章にする効果はもう一つある。
ネガティブな感情にオチをつけたくなってくる点だ。子供のころに繰り返し、「文章を書くときは起承転結を考えなさい」と教わった記憶がよみがえるのか、無意識のうちに頭が結論を求めるのだ。
心配事なり、むかついたことなりを書いていると、思考が自然と「どうすれば楽しい気分になれるだろう」という方向に向いてくるもの。
心配事に対しても、きっと行動の糸口がつかめるに違いない。
それに、私はずいぶんと長い間、この「はらたち日記」をつけているが、ときどき読み返すようにしている。これが、「われながらつまらないことを気にしていたものだ」と苦笑まじりに反省するよい機会にもなるのだ。
そんな私だから、”心配性さん”も「クヨクヨ日記」とか「モヤモヤ日記」というようなものをつけてはいかがかなと思う。
日記と言っても、構えることはない。メモ帳程度の小さなノートに、つらつらと数行分の文章を書けばいいだけ。
人に見せる文章ではないのだから、「文章を書くのは苦手。ヘタクソなんだ」という心配も無用である。