人の目を気にする人のもう一つのタイプに、「自分を自分以上に見せよう」とムリな背伸びをする人がいる。そんな行動の根っこには、素の自分を見せると人から軽蔑されたり、バカにされたりするのではないかという心配が存在しているのだ。
こういう心配性もまたよくわかるが、外見を取り繕ったところで「自分は自分以上でも以下でもない」という事実は変えられない。
広告代理店に勤める麻美さん(39歳)は、心配性が高じて”気取りやさん”になり、周囲からすっかり嫌われてしまった経験を持つ女性である。「学生のころからつい最近まで、ずっと自分が人に与える影響ばかりを気にしてきた」という。
「振り返ると、大学受験に失敗したころからかもしれません。高校にはいってから成績がパッとしなくて、それでも『三流大学にも落ちたのかと思われるのが恥ずかしい』と、『落ちてもそんなに卑屈な思いをせずにすむ』一流大学を二つだけ受験しました。結果、不合格周囲にはわざわざ『浪人は私の美学に反するの。それに私、最初から大学なんて目じゃないの。職業に直結する知識を学べる専門学校に行くつもりだったのよ』とワケのわからない説明をして、無試験のデザイン学校に進みました。
就職のときも、みんなにカッコいいと思われたくて、マスコミにはいったようなもの。幸い、父のコネがあったから、なんとかカッコつけることができただけです。で、会社にはいってからは、『仕事ができて、ファッションセンス抜群で、高級ブランド品が似合って、カッコいい恋人がいて、高尚な趣味を持って、テニスやゴルフなどのスポーツをスマートにこなし…』なんてスーパーウーマンを気取りたくて、カタチばかり気にしていました。
でも、中身がともなわなくて、フリをするのが精いっぱい。自分では周囲に一目置かれていると思っていましたが、五年たってようやくとんでもない勘違いだったことに気づきました。だって、重要な仕事はちっとも回ってこないし、合コンでステキな男性に巡り合っても一~二回のデートで終わっちゃうし、遊びのお誘いもどんどん減るしで、フリをする意味がないんですもん。みんなはきっと、とっくに私のポーズを見破っていたんですね。
一年ほどまえ、会社の忘年会でカラオケに行ったときに、酔っ払った先輩の女性が中森明菜さんの歌を替え歌にして、♪飾りじゃないのよ女は、麻美さ~ん…なんて歌って、みんなにクスクス笑われて。ショックでした。さすがの私も、これまでの生き方を考え直さざるをえない苦境に立たされました」
麻美さんは長年にわたる背伸びで、かなり疲れてもいたのだろう。その飲み会の翌朝には、「もう、カッコつけるのはやめた!」と決意したそうだ。ただ彼女にとって、自分をさらけ出すというのは、かなりたいへんな作業だったようである。これまで、能力のない自分や、魅力のない自分と向き合うことを避けてきたからだ。
彼女は”新生の道”への第一歩を、「自分でも実体がわからなくなってしまっていた自分自身を把握すること」から始めた。思いつくかぎりの長所と短所を、書き出したのだ。
この時点で彼女は一度、「出てくるのは短所ばかり。自分の現実に直面して、私ってほんとうにダメな人間だ」と大きく落ち込んだという。
しかし、「欠点だらけの自分を、まず自分を愛してあげないと、自覚する意味がない」と思い直し、リストアップされた欠点をどうすれば長所に欠けられるかを考えた。欠点と長所というのは、じつは紙一重である。彼女は「考えようによっては、欠点も長所になりうる」という視点から、たとえば「外見を気にしすぎるのは欠点だけれど、身だしなみを整える意識が強いという意味では長所」とか、「高尚ぶるのは欠点だけれど、これは自己への要求水準が高い証拠」「強がりを言うのは欠点だけれど、向上心の現れでもある」などと考えてみた。すると不思議と、自分がなかなか愛すべき人間に思えてくる。
そして仕上げは、「このたくさんの欠点を、どんな方向でギアチェンジすれば、自分がなりたい自分になれるか」を考えることだ。
そう、麻美さんはそれまで、ちゃんと「なりたい自分」を待っていたのに、カタチにこだわることに終始し、努力を忘れていたのである。
心配性の人の中には、自分をよく見せたいために背伸びした麻美さんとは逆に、みっともない自分をみせたくないばかりに消極的な行動しかとれない人もいる。そういう人も”治療法”は同じ。欠点を含めた自分を受け容れて、なりたい自分に向かって努力をする姿勢を持つことが需要だ。
人の目よりも「自分の目」を気にしたほうが、ずっと人間的に成長できるのである。
▽レッスン5「知りません」「教えて下さい」を口ぐせに
「自分が無知だということを隠そうとすると苦しいけど、さらしてしまうと、すごくラクだし、トクもしますよ」と明るく言うのは、編集プロダクションに勤める由佳さん(35歳)である。
彼女はもともと好奇心旺盛なのだが、それは「何も知らないから」なのだとか。編集の仕事に携わるようになって10年たつが、、いまだに記事のテーマは知らないことばかりで、取材に行くのが楽しみでしょうがない、と胸を張る。
「そもそも、何もかも知っていたら、取材に行く必要なんてないでしょう? 専門誌だったら『知らない』ではすまされないことも多いかもしれないけれど、私の仕事は一般の人に『こんな面白い世界があるんですよ』とお知らせすることだから、自分の無知を恥じて知ったかぶりをしても、原稿を書くときに困るだけなんです。
私は取材中、わからないことがあればすぐに質問するし、相手には私が理解できるまで説明してもらいます。しょっちゅう、『ものすごく基本的なことを聞きますが』とか『不勉強で申し訳ないのですが』と言ってます。
もちろん、ときどき相手に『こんなことも知らないの?』とか『なんてトンチンカンな質問をするんだよ』という顔をされますが、叱られることはありません。みなさん『しょうがないなぁ』と言いながらも、とても丁寧に教えてくれますよ。
以前、料理人の方を取材したときもそう。彼は師匠から受け継いだ料理哲学を披露してくれたのですが、言葉としては『ふ~ん』と思うものの、料理は節度のありう行為でなくてはなりません』とか、表現が抽象的でいま一つ意味がわからないので、
『具体的にどういう意味なのか、説明していただけますか?』とお願いしました。
彼はとても気むずかしそうな印象の人で『怒らせるかも』という怯えはありましたが、そのままでは読者も理解できないだろうから、思いきって尋ねたんです。
彼は一瞬、『何だと』みたいな顔をしたあとで笑いだしちゃって。『料理人はね、この言葉を師匠が料理する姿から感じ取って理解し、経験を重ねていく中で自分の血肉にするんだよ。僕だって、師匠の背中を見て学んだし、僕も弟子に説明したことはない。でもまぁ、読者は料理人じゃないからしょうがないな。特別に説明しましょ』と言って答えてくれました。最後に冗談まじりに、『お宅の記事、弟子には見せられないな。隠しとかなきゃ』って言われましたけど。
もし、相手が不機嫌になるのを怖がって質問を躊躇していたら、自分が理解していない言葉をそのまま書くハメになるところでした。彼の印象も『怖い人』のままだったと思います。おバカな質問をしたおかげというか、場が一気に和んで、その後の彼はとても饒舌になりましたし、メデタシ、メデタシでした」
由佳さんによると、取材相手は、彼女の無知を知ると喜ぶそうだ。「教えがいがある」と感じるのか、自然と言葉数が増えるという。「ただし」と彼女は続ける。
「私だって無知を恥じる気持ちはありますから、当然、取材まえに下調べはしますよ。でないと、質問もできませんから。あと、わかった気にはならないように気をつけています。資料から得た知識以上の話を聞き出す妨げになるから。
私の仕事にかぎらず、自分がもっと知りたいと思う気持ちが強ければ、平気で無知をさらせると思います。だって、無知を隠しても知識は増えないけれど、白状するといろいろなことを教えてもらえる分、自分が成長できます。だんぜん、おトクです」
由佳さんが指摘するように、仕事でもプライベートでも、相手に「知らないの?」と反応されることを恐れていると、見聞を広めたり、新しい知識を仕入れたりするチャンスをみすみす逃してしまうことになる。ひじょうに損なのだ。
しかも、話し相手というのは自分が話したい話題について、詳しい人より何も知らない人に話すほうが、熱がこもるもの。正直に自分の無知を白状し、相手の懐に飛び込むからこそ、人は情報を提供してくれるし、協力を申し出てもくれる。人間関係を築くうえでも、メリットは大きいのである。
人との会話で「知ってる?」という問いかけがあったら、知らない場合は無知がバレるのを心配せずに、堂々と「知りません」と言おうではないか。そして「でも、知りたいから教えてください」とお願いするといい。
あなたの評価は下がるどころか、ぐんと上昇するに違いない。
それにつけても亡くなった私の母は、心配性とは、無縁の人間だった。心配する暇があったら行動するタイプだ。終戦後の住居難のときには私の父の付き合いのある出版社をさっさと回って、みんなの住む家の資金(印税の前借り)をかき集めた。
当然、父は勝手なことをしたいといって怒っていたが、それで家族が大いに助かったことも事実である。グズグズと心配しながら、座して手をこまねいているようなことはしなかった。
それでいて、何をやってもムダなときは、時間が解決するまでじっと待った。ジタバタしないのである。海外旅行で何らかのトラブルで飛行機が飛ばないとわかれば、本を取り出して飛ぶまで読んでいる。ほかの乗客のように、「どうしてくれるんだ」と空港の係員に食ってかかったりしない。
私から見るとひじょうに自分勝手な母だったが、そんなところには見習うべき点があると思ったものだ。