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button-only@2x 人はもともと、「心配」するようにできている

「くよくよすること」には、「幸せになるための力」がある

人は誰しも、イヤな思いをしたり、危険な目に遭ったり、不幸になったりしたくない。だから心配する。先に待ち構えている現実を考えると、どうなるかわからないだけに、不安でしょうがなにのだ。

私自身、どちらかというと楽天家で、先のことをあまり心配しないタチではあるが、以前に前立腺肥大を患ったときは会議や講演、旅行などで、たえば、「途中で尿意をもよおしたらどうしよう」とビクビクしていたし、診察、講演、執筆…さまざまな仕事に向かうときは決まって、「みなさんのお役に立てるだろうか」と不安になる。

自分のことだけではない。家族の将来についても、いつだって心配している。

作家のマーク・トウェインは、こんなことを言っている。

「私は人生の苦難を味わってきたが、実際に起きたのはほんのすこしだった」

この言葉は人がいかに実際に起こった苦難よりも、「先に予想される苦難を心して日々を過ごしているか」示唆するものである。

と同時に、「悪いことを予測して心配する」という心配ぐせは、人としていかんともしがたい「性(さが)」と見ることもできる。

いや、人だけではない。動物だって自分の命が危険にさらされないよう、日々「心配して」暮らしている。「捕らえた獲物を横取りされないか」と目を光らせたり、自分より強い動物のそばに近寄らないようにしたり、冬眠に備えてたっぷり栄養を蓄えたり、生き残りためにつねに心配しながら行動しているのだ。

こんなふうに、「心配する」という行動は裏を返せば、「幸せになりたい」「平穏な暮らしを楽しみたい」「トラブルやアクシデントを乗り超えて成功したい」といった前向きな気持ちの表れでもある。

それが、心配するような結果にならないために努力する、という行動に反映されたり、憂慮すべき事態に陥った場合の善後策を練る用心深い行動につながったりする。つまり、心配性であることは、「幸せを得るためのエネルギー」にもなりうるのだ。

「良い心配」とは、「悪い心配」とは?

実際、物事を深く考えず、心配しない人の多くが、思わぬ、”落とし穴”にはまって、「こんなはずではなかったのに」後悔するハメに陥る。リスクをきちんと考えて慎重に行動する人のほうが、結果的には幸せを手に入れることも少なくない。

心配性が地道な努力を促し、幸せな人生を着実に構築するための舵取りをしてくれるのだ。

それが証拠に、成功した人は大半が、「自分は心配性だ」と自認している。たとえば、偉大な経営者として知られる松下幸之助氏は、「心配こそ生きがいだ」と断言する。氏は「夜も眠れない」ほど、毎日が心配の連続。「脈が結滞する(乱れること)」ようなことも、たびたびだったという。

創業のころに、「初めて採用した従業員は、ほんとうに出勤してくるのか」と心配で工場の前に立って待っていたことに始まり、税務署の調査がはいると言われれば

「税金の申告額に見解の相違があったらどうしよう」と心配したり、商品が売れない現実を前に「この在庫をどうしたらいいんだ」と苦しんだり。経営者としての悩みや心配事に日々、直面していたのである。

しかし、氏は、

「社長というのは、『問題だらけの会社だ。直さにゃいかん』と心配し、その心配と戦いながら、会社を立派にしていく。社長こそ、心配するのが仕事だ」

と考えたそうだ。

また、ソフトバンクの孫正義は、体が弱かったことと在日韓国人であることから、

「日本の企業にはいっても、将来はないだろう」と心配し、十九歳のときに自分で会社を興す決断をしたと伝えられている。

もし、氏に将来への心配がなかったら、今日の躍進はなかったかもしれない。

こういう例は、枚挙にいとまがない。

だから私は、「心配性、大いにけっこう」と明言したい。

ただ心配性には、前向きな行動と裏腹の関係にある「良い心配性」と、本人にも周囲にも何のメリットもない「悪い心配性」がある。

その分岐点は、わかりやすく言えば、「心配しがいがあった」と思えるような心配の仕方をしているかどうかにあるのではないか、と私は思う。

どうせ心配するなら、いい結果が得られるほうがいいに決まっている。

心身を消耗させるだけだったり、ムダな時間を費やすことに終始したりするような「悪い心配性」を蔓延させないようにしたい。「ムダな心配ぐせ」をなくしたい。

本書では、心配性の性格を分析しながら、これをいい方向へと変換する考え方をご提案したいと思う。

まず、人はなぜ心配になるのか、その原因を考えてみよう。

病気を治療するときは、まず原因を突き止めるように、心配性の性格を変える第一歩は、原因を認識するところにあるからである。

次項では、多くの人が心配性になる「9つの理由」から、私たちがつい陥る心配ぐせの正体を明らかにしていきたい。

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【「心配者の虫」が騒ぎ出したら、こう対処する】

人がくよくよ、イライラする「9つの理由」

あなたの中では、どんなときに「心配性の虫」が騒ぎ出すだろうか?

おそらく、本書を手に取った「心配性と自認している」読者の方も、多くは「この部分では心配性だが、意外と大胆な面もある」のではないかと推察する。私には、人によって”飼って”いる「心配性の虫」が違うように思えてならない。

たとえば、

「明日の朝食のパンを買い忘れたことを心配する人が、明日の仕事がなくなるかもしれないようなフリーの仕事に何の心配も感じていない」

「地震を恐れて食べ物を備蓄している人が、下敷きになったら一巻の終わりと思えるような部屋に平気で暮らしている」

「健康を気に病んで食事制限をしている人が、過労死するのではないかと思うくらい猛烈に仕事をする」

「ケチと評判にお金に細かい人が、ムダ遣いを心配する一方で、何の疑問もなく手数料を払って、銀行からお金をおろす」

「上司にすこし叱られただけでクヨクヨする人が、大きな仕事を任されるとひるまずに受けて立つ」

などということがよくある。同じ心配性の人でも、心配のしどころがまったく異なるのだ。

いずれにせよ、大半の人が多かれ少なかれ、「ここで心配するのはいかがなものか」というようなシーンで頭を抱えているはずだ。「心配の根拠」を明確にするために、以下の多くの人が陥る「心配性になる理由」を列挙してみよう。

《理由①「やるべきこと」を怠ってしまった》

ありがちなのは、外出したときにふと、「カギをかけたかな?」「ガスの元栓を締めたかな?」「エアコンのスイッチは切ったかな?」「窓は閉めたかな?」などという心配事が頭をかすめることだ。

細かいことながら、こういう心配をし始めると、気が気ではなくなる。確認するために帰宅しなければ、胸のバクバクがおさまらないほどだ。実際、帰ってみたら「ちゃんとやっていた」ことが多いものである。

やっかいなのは、仕事で「自分が納得できるまでやった。やるべきことはすべてやった」と確信できないときに生じる心配である。仕事には納期というものがあるし、すべてを完璧にしようと思うとキリがないので、なかなか心配性はおさまらない。

完璧主義の人ほど、こういう心配性に陥りやすい一面を備えている。

《理由② 「悪い結果」ばかり想像してしまう》

人生は、行動の結果を突きつけられることの連続だ。その結果がどうなるかハッキリわかっていれば誰も悩まないのだが、たいていの場合は「良いこと」と「悪いこと」の両方が予測できるから困る。

しかも、人の気持ちはいい結果を予測してテンションを高めるより、悪い結果を心配する方向に傾いてしまいがちだ。

というのも、人の感情は意識しなければ「マイナス思考をするようにできている」からである。重要な仕事で出張するときに、誰もが「列車に乗り遅れたらたいへんだ」と心配するように、これから当たる物事が重要であればあるほど、「悪いことが起きてはならない」と考えるから、つい「悪いことが起きたらどうしよう」というマイナス思考に陥る。そういうものなのだ。

物事にはかならず、いい結果と悪い結果がついて回るので、人は誰もがこの種の心配性と上手につき合わざるをえないところだ。

《理由③「新しいこと」に直面している》

たとえば初対面の人に会うとき、その人のことを知らないから、「どんな人だろうか。自分と気が合うだろうか。イヤな思いをするんじゃないか」などと心配になる。

また、初めて挑戦する仕事には、成功体験がないし、知識もないから不安になる。

人が霊やお化けに「取り憑かれたら不幸になる」と怯(おび)えるのも、その実体がわからないからにほかならない。

そんな心配性の根っこにあるのは、根拠のない恐怖感。実体を知れば心配は解消されることが多いのだが、未知の物事に対して好奇心や探求心、挑戦心に乏しい人はとくに、何か新しいことを前にすると「心配性の毒」に冒されやすい。

《理由④》「目的」を見失ってしまった》

仕事でミスが生じたようなとき、予測できる悪いことはたくさんある。というより、「悪いこと」しか頭に浮かばなくなる。仕事の成果が台なしになる、取引先や上司の信用を失う、会社に損害を与える…ミスによる影響を考えると、心配するのもムリからぬ話だ。

こういう起きてしまった事態に対してパニックになる原因は、じつは「行動の目的を見失う」ことにある。心配事ばかりが頭の中に渦巻いて、何をしたらいいのかがわからななくなってしまうわけだ。

人の行動にはすべて目的が必要だ。だから、問題解決のためになすべき目的を見失うと、「心配性の泥沼」にはまってしまうことになる。

《理由⑤ 「過去」の失敗が頭から離れない》

失敗したときの苦い思いは、脳へのインパクトが強烈なので、なかなか忘れられずにあとを引く。それだけに、同じような場面に遭遇すると、「また失敗するのではないか」といっそう心配になる。

こういうイヤな予感は不思議と的中するから、なおやっかいである。失敗したときにクヨクヨと後悔するばかりで、具体的な反省善後策をきちんと考えない人は、どれほど心配しようが、同じ過ちを繰り返すことになる。

《理由⑥ 「自分の能力」に自信がない》

自分の能力を超えるように思われる物事にぶち当たると、「どうせ、うまくいきっこない」とか、「トライしてみたところで恥をかくだけだ」とマイナスの結果しか考えられずに心配の根拠は、自分の能力だ。

とくに自分に自信がない人は、自分を卑下したり、ダメなところを隠そうとしたりしがちだ。うまくいかないことによるダメージを想像して、心配の深みにはまる。自分の能力だ。

とくに自分に自信がない人は、自分を卑下したり、ダメなところを隠そうとしたりしがちだ。うまくいかないことによるダメージを想像して、心配の深みにはまる。自分の能力を受け容れる勇気がないと言い換えてもいいだろう。

《理由⑦ 「他人からの評価」ばかり気になる》

何をするにも他人の目や評価が気になって、自由に行動できない”心配性さん”がいる。他人の頭の中を覗き見ることは不可能なので、どんなに一生懸命考えても心配が解消されることはない。

《理由⑧ 「周囲への不満」がつのっている》

「こんな世の中だから、幸せな将来は見えない」とか、「あんな上司の元で働いていてもお先真っ暗だ」といった心配をする人は、さまざまなことを他人や社会のせいにして、悩みを深める他人や社会のせいにして、悩みを深める。他人や社会を自分の力で変えることはひじょうにむずかしいから、いっそう不安を募らせる。

何をやってもうまくいかないようなとき、この種の心配性に陥る人はじつに多い。

周囲への不満を抱きつつ、自分の非力を嘆く。どうにもならないことばかりで、いつまでたっても心配性のトンネルから抜け出せないのだ。

《理由⑨ 「やり直せないこと」に絶望している》

過去を振り返ってクヨクヨするとき、その原因は「やり直しができない」ことにある。「あんなことをしなければよかった、言わなければよかった。ああしておけばおあかった、こう言えばよかった」と後悔ばかりするので、前に進めない。言ってみれば、「やり直しができない」と心配するわけだ。

こうなると、「何ができるか」という発想が得られず、蜘蛛(くも)の糸にからめとられたようになる。もがけばもがくほど、心配性にがんじがらめにされるのである。

「心配」を「心配り」に変えればうまくいく

ざっと、こんなところだろうか。もうお気づきだと思うが、心配性というのは心配しているだけではけっして問題を解決できない。こんなふうでは、たとえば遅刻したときに電車の中を走るようなもので、事態はすこしも好転しないのだ。

心配の原因を冷静に分析してみる重要性は、まさに「心配してもムダなことを心配する」ことにエネルギーを浪費していると気づくことにある。そしてまずここで、

「心配はすべて、いい結果を導くためにする行為」

であることを認識しておいていただきたい。

冒頭でも申し上げたように、人はもともと心配性である。幼い子供を持つ親が、いっときもわが子から目が離せないのと同じだ。道路に飛び出さないだろうか、遊んでいてケガをしないだろうか、とつねに心配しなくてはならない。この心配ぐせが子供を事故から守っている。適度な心配性はけっして悪いものではない。

私たち心配性の人間のなすべきは、心配性の性格を上手に利用すること。心配を「心配り」に変えて、前向きに生きるエネルギーに変換できれば、きっと「心配性って悪くないなあ」と思えてくるに違いない。私もそうしてこれまで生きてきた。