「運・鈍・根」という。何事かをやりとげる三条件というわけだが、しかし、「運」も「鈍」も、自分の意志ではどうにもならない。運は、もともと自分のものではない。鈍は、自分のものだが、日常生活の中で「鈍であること」は、思った以上にむずかしい。気がついたときには「鈍くなってしまった」ということもあるから油断できない。
ただひとつ、自分の意志で何とかなる…というのが「根」、つまり根気だ。これも実際はつづかないものだが、それでも気持ちしだいだ。
「おれには才能がない。けれども、根気だけはだれにも負けない」
という人がいる。口だけではなく、本人も実際に思い込んでいる、そして、こつこつとひとつのことをつづけていると、ほかのことはあまり考えないから、社会の中では「鈍」になりさらにつづけていると、何のめぐりか「運」がついて、図らずも三つの条件がそろって何事かをやりとげてしまう…。このようなケースはよくあるのだ。
だから、とりあえず「根気」が大事…といえるのではないか。
とはいえ、それにも「時」と「場合」があって、周囲に迷惑をかけてまで固執するのはどうかと思う。
たとえば、ふられた相手にいつまでもつきまとう…などは、その典型だ。根気強くやれば…残念ながらストーカー扱いされることになる。
気持ちはわからないではないが、相手の気持ちもあれば、都合もある。いくら告白を繰り返したところで、どうにもなるまい。敗者復活戦で負けたのだから、あきらめるしかあるまい。
世の中には、自分の努力や気持ちだけではどうにもならないことがある。粘り強くあらねばならないが、同時にあるところまで頑張ってもダメなら、あきらめることも必要だ。
そして、矛盾するようだが、あきらめることによって、次のチャンスを獲得することも確かなのだ。あきらめられなくてうじうじしていたら、そこからは一歩も動けないだろう。しかし、すっかりあきらめてしまったら、次の局面にストンと入っていける。止まっていたものが、動き出すこれが大事だ。
すっぱりと負けを認められる人は、新しいことに身を投ずることができる人だ。
自分の心のためにも、人から嫌われないためにも、「失敗することもあるさ」といえるのがいい。そして、新しいことに「根気」強く取り組むのがいい。
【先回りの助言が、やる気を削いでいく】
こんなことはないだろうか。「さて、勉強しなきゃ…」と思っているときに、母親に、
「そんなにのんびりしていていいの? 勉強しなさい」
といわれて腹が立ち、勉強する気もすっかりなくなる。母さんがあんなこといわなきゃ勉強したのに…と、いらいらする。
この気持ち、解説は不要だろう。しかも、勉強しなければ困るのは自分である。
それがわかっているだけに、よけいにいらいらする。
人というのは、「つい」、こんなことをいってしまう。相手のためを思って、よかれと思って…である。だから、いっていることは正しい。しかし、いっていることが正しくても人がやろうとしていることを先回りしていってしまう人は、けむたがれ、距離を置かれてしまうのである。
本人は「せっかく、的確な助言をしてやってるのに、何でちゃんと聞かないのよ」と思っているのだが、いわれるほうにしてみれば、あまりいい気分はしない。
おまけに、先回りしてよけいなお世話をしてくれる人というのは、ほとんどの場合、それが「習癖」なのである。いわずにおれないのである。ちょっと「いう」ことによって、安心できる。おまえのため…といいながら、自分の心を安らげている。しかし、そのために、相手はいらいらさせられるのだから理不尽だ。
一方、人を安心させる人というのは、気遣いはするが、手や口は出さない。受験生のわが子に「いま勉強しにないと大人になってから後悔するわよ」などというが、これは勉強への意欲を削いでいる。「勉強しなくちゃ」と思っているところに、執拗に勉強するようにいわれれば、反発するのは当然で、そこまで先回りすることもないではないか。
人というのは「自主的」であることが大切で、それがやる気につながり、活発な行動となって表れる。先回りされて、だれかに「命令」されては、やる気が生まれない。
マラソン選手を見てほしい。彼らは、走ることが好きで、自分が「選んだ道」だから、へとへとになっても、さらに頑張れる。あれが、だれかに「命令」されたものだったら、へとへとになっても、さらに頑張れる。あれが、だれかに「命令」されたものだったら、あんなにつらいことはないだろう。自分の「やる気」を削いでくれる人を好きにはなるまい。人に助言することは、とてもむずかしいものだ。少なくとも、自分の心を安心させるための「先回りの助言」は、やめよう。それより、相手がやる気を出すのを待つぐらいの余裕がほしいものだ。
【人を変えようとするのは、ちょっと図々しい】
「どうして、あの人、いつもああなのよあの性格、何とかしてほしいわ」と思う。そうすれば、私だって、こんなにいらいらしないし、気分よくつきあうこともできるのに…。あの人には困ったものだわ、早く直してほしい。
人と人というのは、お互いに、そう思うものなのかもしれない。関係のない人はどうでもいいが、身近な人に対してこそ、思うのだ。
しかし、よく考えてほしい。あなたは、ある人に「変わってほしい。いけないところを直してほしい」と願っているのである。なぜかといえば、あなたは、ある人に「変わってほしい。いけないところを直してほしい」と願っているのである。なぜかといえば、あなた自身が安心したいからである。もし、他人から「あなたは、ここを直してほしい。そうしないと私は気分が悪いから」といわれたら、どんな気がするのか想像してもらいたい。
人を自分の都合のいいように変えよう…。あなたは、そう考えているのである。
いや、そんな…私はただ、直してくれれば、気分よくつきあえると思っているだけで…、というだろうが、それが、その人を自分の都合にはめようとしていることだ。
ふり返って「自分」を見てほしい。あなたの望んでいることは、あまりに横暴で図々しいことではないだろうか。まあしかし、安心してほしい。人というのは、多かれ少なかれ、みんな、そうなのである。
「相手に変わってもらえれば、もっと楽しいのに」
と思いながら、自分は変わろうとしない。なぜか。変わるのは、とてもつらいことだからだ。そのつらいことは相手にやってもらって、自分は楽をして、理想の姿を望む。
理想の姿を望むのはけっこうだが、それを実行しようとすれば、自分も大きな痛みを伴わなければならないのではないのか。
人には、百パーセントの完璧を求めないこと。お互いに80パーセントぐらいのところで「いい状態」であるのが、無理がなく、長つづきする。相手に完璧を望んだばかりに、すべてを失ってしまうことだってある。
完璧をめざすことに意義はある。しかし、より理想に近づくためには、現状は80パーセントでいいという考え方でいたほうが、着実に力もつき、人間的な魅力も備わる。不足分の20パーセントは、自分がすこしづつ成長しつづけることでいずれ埋まるものである。焦ることはない。あとは、時間が解決してくれるのである。