現実に起きてもいないことをあれこれと考え過ぎる人がいる。それでいい結果を得られるなら万々歳だが、なかなかそうはならない。
会社の廊下で、ふたりの女子社員が立ち話をしながら、ちらりとこちらを見た。「勤務中なのに、まったく困ったもんだ」と思う人もいるだろうし、「何を話してるの?」と会話に加わろうとする人もいるだろう。
けれども、考え過ぎる人は「自分の悪口をいっている」と思い込む。これを「被害関係妄想」というが、自分のまわりで起きたことを、すべて自分に結びつける。
ご丁寧にも、雑誌で読んで「女子社員に嫌われる男は出世しない」という見出しが頭のなかを駆け巡り、暗い気持ちになる人もいる。女子社員は、誕生日会の打ち合わせをしていただけなのに、だ。よかれぬ想像をし、勝手に不愉快になってしまうのだから、悲劇的というよりは、喜劇的なのかもしれない。
人と待ち合わせをする。約束の時間を二十分過ぎても、相手は来ない。
「場所がわからないのかなあ」「あいつ、また寝坊したな?」「まったく、失礼な奴…」怒るか許すか、人それぞれ思うことは違うだろうが、文句のひとつもいって、気がおさまるならそれもいい。しかし恋人がちょうとくらいデートに遅れたからといって、「もう、愛情が冷めたのね。もしかしたら、ほかに女がいるんじゃないかしら」と勘ぐってはいけない。打ち合わせに考えてしまうのもよくない。
想像力が豊かなのはけっこうだが、あまりに悪いほうへと考え過ぎては人生の妨げになる。待っている時間というのは、本来、「楽しみなもの」ではないのか。来年の誕生日には…、わが子が成人式を迎えるころには…、と「楽しみに待つ」のが正しい。
実際、好かれる人は「待たされる」という無駄とも思える時間を「楽しみ」に変える。
忘年会なのに、時間になってもなかなかメンバーがそろわない。そんな状況でも文句をいわず、その場を楽しもうとする人がいる。
「さて、次にくるのは部長でしょうか、課長でしょうか?」と、嫌なムードをクイズにしてしまう。
自らを不愉快にしないばかりか、周囲にまで「楽しい種」をばらまく。そんな気持ちでいれば、図らずも、人から好かれてしまうものだ。
【自分まかせ】を訓練しよう
旅行会社が企画したツアーしか経験がない人は、出張で地方にいても楽しみ方がわからない。添乗員が安全に確実に「見どころ」へ案内してくれることが当たり前だと思っていたら、見知らぬ土地でひとりぽつんと不安になるだろう。
旅行大好き人間は、私のまわりには大勢いるが、彼らは見知らぬ土地に行くと、何かと鼻が利く。勘がさえるとでもいうのか、だれかに案内されることなく、美しい風景や楽しい人と会うことができ、大きなトラブルに巻き込まれることもなく楽しむ。
さて、何をするにもだれかにちょっと相談しなければ「動けない」という人がいる。
自分のやることに自信がもてず、いつもちいさな迷いを抱え、だれかにちょっと相談することで「お墨付き」をもらい、ようやく安心して「動ける」ようになる。世の中には、ひとりで判断したり行動することが苦手で、つい人に甘えたり、頼ってしまうことが「癖」になっている人が意外なほど多い。
どんなことに対しても自信満々という思い上がった人も困るが、何をやるにも自信がない人はもっとも困る。いつもだれかがそばにいて、「だいじょうぶよ。きっとうまくいくからね。自信をもって…」と、いちいち元気づけなければならないのでは、まわりの人がくたくになる。みんな、自分の面倒は自分でみているのである。困った「癖」は、自分で早く修正してほしいものだ。
心に安心と自信をもたらす、もっとも大きな要因は「経験」である。過去に「自分はこういうことをした」という経験があれば、新たな局面に立っても「今回は、これをこうすれば…何とかなりそうだ」という気持ちにもなれる。しかし、そうではなかった人は、頭のなかに不安だけが雪だるま式に膨らんでいく。
不安になるということは、自信がないことの裏返しだ、あえて厳しいことをいえば、こういう人は、これまでに自分の考え、自分の力で困難を乗り越えてきたという「実感」をもてない人だ。大事の前で、いつも「他人まかせ」だったひとだ。そのぶん、「自分まかせ」の練習不足なのである。これが、不安や自信のなさにつながっていく。
「自分まかせ」で生きてきた人は、愉快である。やらやましいくらいに人生を楽しんでいる。まあそうはいっても、自信を失うこともあるのだろうが、そのたびに「落とし所」が見えてきたり、何とか形になりそうだ…という見当がつくようになる。物事の「処し方のコツ」がわかる。現実的な対処のできる人は、頼りにされる人だ。
【待たされるより、楽しみを持とう】
寿司屋で待ち合わせをしているとしよう。相手はなかなか来ない。しかたなくカウンターでビールを飲み、軽くつまみを食べる…。多少の差はあれ、気まずい雰囲気を感じながら待たされた経験はあるだろう。
さて、みなさんはどうやって待つだろうか。おもむろに鞄から文庫本を取りだして読むか。いらいらしながらもひたすら飲むか。何も考えず、ぼーっとしているか。それとも寿司屋の大将に話しかけるか。
喫茶店なら、新聞や雑誌を読むのもいいが、寿司屋のカウンターでは少々場違いで、ちょっと気が引ける。いらいらして飲みつづけるのは、ビールもおいしくないし、からだにもよくない。
どうせなら、「せっかく職人さんがいるのだから、寿司の話でも聞いてみるか」というくらいの気持ちになってもらいたいものだ。
時間の使い方とすれば、いらいらしながら待つのはマイナスだろう。ぼーっとしているのはプラスマイナスゼロだろう。しかし、「いまは、どんなネタが旬ですか…」このヒラメはどこであがったの?などと、話かけて会話が弾めばプラスである。
これは単に無駄とも思える時間がプラスに転じるだけでなく、気さくで感じのいい客だと思われ、厚遇を期待できるかもしれないではないか。そのぶん、おいしい寿司に出会う確率も高くなる! …まあ、それはさておき、長い目で見れば、店の人との伝(つて)ができることは意外に大きな財産となることもある。取引先の人や仕事仲間を連れていったときのサービスも違うだろうし、休日に宴会を頼むことができるかもしれない。
人と人というのは、何が幸いするのか、だれにもわからない。
待ち合わせをした相手が時間どおりに来ていたら、もし遅れた時間をただぼーっと過ごしていたら、広がらなかったはずの人間関係が、「話しかける」というほんのちょっとした試みで大きく変わる。
わずか数分の「待たされている時間」がきっかけとなり、数年後に大きな実りとなることも多い。どこまで広がっていくかは、現時点では、だれにもわからない。
人と人との関係は、そのほんのちょっとしたことができるか否か、だ。相手のミスや失敗にいらだつことなく、ちょっと「話しかけ」て待つことができれば、そこには「芽が」が生える。その芽がどのように伸びるかを楽しみに待っていよう。