【束縛しているのは自分だと気づく】
ストレスというのは、いろいろな原因で襲い掛かってきます。本人には、ストレスがどこか外部からやってくるように感じられたり、だれか他の人から持ち込まれるように思えますが、じつは、すべてはその人の心の中での出来事です。
ストレスをストレスと感じるのはあくまで自分自身ですから、それを解決できるのも自分なのです。
ストレスが溜まるという人のほとんどが、自らストレスを再生産する傾向があります。たとえば、仕事を進める上で、人一倍完璧を求めるとか、周囲の人間にも一層の努力を求めるといったタイプ。
ところが人はけっして自分の思い通りに動いてくれませんから、なおさらストレスをとなりやすいのです。
完璧主義だと仕事というものは求められたレベルをこなせばいいのですが、それをさらにレベルアップしようとするあまりにストレスとなってしまうのです。
家事においても、たとえば、結婚当初には、洗濯物は洗って干して、きちんと乾きさえすれば満足して、うきうきしながら楽しんでできたのですが、次第に完璧を求めるようになる場合があります。
そうなると、シャツなどの襟もピシッと仕上がらなければならない、ウールものは毛玉ひとつ許さない、白い物はまっ白に、色柄物をもとくっきり、という具合にエスカレートし、少しでもうまくいかないとストレスになるというわけです。
こういう状態になるとストレスがストレスを生みますから、一度、リセットするほうがいいのです。ゼロにするというほどでなくても、少しはリラックスさせるために、
「自分を自分の奴隷から解放する」のです。
自分の心だからといって束縛しすぎてはしけないわけで、ある日一日、「今日は、なにもしなくていいよ」と解き放つのです。
または、本当はやりたくてしかたがないのに我慢していた趣味の作業などを、なかば強制的にでもいいのでやらせて、いつもとは違うことに没頭させます。
こうすることで、それまでのストレスまみれの自分が客観的に見えてきます。解放されてはじめて、自分は本当は別のことをやりたかったのだ、と気づくのです。
【人生はどこから見るかで変わる】
— 自分の視点だけで人生を見ていないか —
学校で勉強していた頃に、きっと「広い視野と、いろいろな視点をもちなさい」と教えてくれる先生がいたと思います。まさに、勉強というものはそのためにあるわけで、人生も同じことがだと言えるでしょう。
子どもが「数学なんか社会に出たら不必要だ」と言うとき、「数学そのものじゃなくて、世の中にはそういう視点があることを勉強するんですよ」と教えるのも親の役目なのです。
ところが、親も自分の人生を「広い視野と、いろいろな視点」で見ることを忘れがちです。いつも怒りっぽい人は、きっと自分はもっと正当に待遇されるべきだ、と考えているのでしょうし、落ち込みやすい人は、きっと自分はなにをしても評価されない、と考えているのでしょう。
どちらも客観的に自分を見ることを忘れています。たとえば、小さい子どもをヒステリックに叱るお母さんにそのようすをビデオに撮って見せると、「私はこんなひどい叱り方をしていたのか」と一様に驚きます。
友人に借りたお金を返さない人に、借金を返さない人の話をすると「ひどいやつがいるな」と憤慨し、それはあなたですよ、と言うとやはり驚きます。
自分がしていることを客観的に見ることができないと、人生のクオリティそのものが違ってくるのです。なぜなら世の中には人に迷惑をかけても、それすら自覚できず、他人から後ろ指をさされて生きていく人がいるものです。
また、落ち込みやすい人は、「自分ほどついていない人間はいない」と思いがちですが、世の中には重い障害や病気を持って生まれながら、必死に生きている子どもや、自ら困難な役割を引き受けて危険な仕事に励んでいる人々がいます。
それほどの困難でなくても、だれでも心配や不安、病気などの一つや二つは持っていて、それでも人に対しては明るく振舞おうと努めているのです。
そういうケースが自分の視野に入っていないために、そういう人がいることをすっかり忘れて、自分だけが「ついていない」と考えるのです。そういう指摘されればそのときは「広い視野と、いろいろな視点」は、つねに気にかけたいところです。
【ほんとうに「大変な事態」なのかと考えてみる】
–「はずせない仕事」などない、と考えよ。–
予定を聞くと、決まって、「ずっと忙しくて、その日もはずせない仕事が入っているので…」という会話になる人がいます。確かに暇な人よりは忙しいのでしょうが、仕事の予定が変更できないなどということはそうそうないものです。
たとえば、結婚式に出席するとよく感じるのが、「よくもまあ、これだけ親戚一同集まったものだ。まさに万障繰り合わせればなんとかなるものだな」ということ。
つまり、前もってきちんと連絡を取っていれば、どんなに忙しい人でも身近な人の大切な場には参加できるものなのです。
ということは、ある集まりに「仕事でいけない」ということは、「そんな集まりに価値ははない」と言っているに等しいことになります。その人なりに自分にとって大切かどうか評判をするということでしょう。
ストレスを感じやすい人や落ち込みやすい人は、「重大な仕事」や「家族の大問題」に振り回されがちです。日常の出来事を「重要」であると位置づけるわけですが、よく聞くと、さほどの問題ではないことが多いのです。
多くの人が「この仕事は必ず今日中にこなさねば」と夜遅くまで働いたりしているのですが、その必要がないこともよくあります。
一生懸命働いているように見えますが、長時間働いて能率が落ちているのでさほど進捗(しんちょく)もしません。その日はやめてしまって、翌日改めて取りかかったほうが効率的なことが多いのです。人生でも「大変な事態」だと過剰に考えて、心配することがあります。たとえば、子どもが門限を守らなくなった、などという「事態」です。家族で話し合えばいいのですがその時間が取れない、とストレスになります。
けれども、世の中を客観的に見回して、広い視野から改めて自分を見たら、そこにいるのはただの「心配性の親」に過ぎないかもしれません。少なくともすぐにだれかの生命に関わるとか、二度と取り返しがつかないといった「事態」でないことは明らかです。
よく考えたら、「はずせない仕事」などないのですから、前もって家族で話す日時を決めて、ゆっくりリラックスして話し合えばいいだけなのです。「この仕事は自分がいなければダメ」というのもほとんどの場合思い過ごしです。なぜなら、その人が入社する前には、その仕事はだれか他の人がやっていたからです。
【すべてを受け入れればラクになる】
気の持ち方で自然体になれる秘訣
やる気が出ないととか落ち込みやすいという原因には、人生が自分の思い通りにならないから、どうすればいいかわからない、というものもあります。
これこそ、「広い視野」で見なければなりません。いったい、この世の中のどこに「思い通りの人生」を送っている人がいるでしょうか。
人生は思い通りにならないのが当たり前なのです。思い通りにならないものを、背伸びをしたり、虚勢を張ったり、無理なことをしてきたから、やる気もなくなり、落ち込みやすくなっているのではないでしょうか。
思い通りにならないのだから、なるがままに人生を過ごしてみたらどうでしょう。こうでありたい、という気持ちは机にしまっておいて、このほうがよかった、という思いはゴミ箱に、こうしたいという気持ちは少し謙虚に、「こうなればいいな」くらいにしてみるのです。
すると、それまでの「こうでなければ」という義務感が薄れて心に違ったエネルギーが湧いてくるはずです。
だれかから責められていると感じても、謝って済むのならさっそく謝りましょう。なにも格好をつける必要もありません。「こうでなければ」ではないからです。
だれかの提案があればさっそくやってみましょう。失敗してもいいではありませんか。どうせ思い通りには行かないのですから。
けれども決して無責任になるのではありません。責任も自然に受け入れます。責任逃れをする必要もありませんから。
なにも起こらなかったら、のんびりしましょう。あわてて、次の企画を考えても、いいものなど出てきません。しばらく心を放牧しておけば、これまでとは違ったものが湧き出してくるでしょう。
まわりの人が急かしたら、適当に合わせましょう。急いでいるふりをしてもいいし、「まあまあ、そうあわてずに」と自分のペースに巻き込むこともできます。
かつてないような大失敗をしてしまったら、これからはそれ以上の失敗がないだろう、と秘(ひそか)かに喜びましょう。もっと大きな失敗が起こるだろうか、と心待ちにできるくらいになれば、自然体の心のできあがりです。