老いていくと、何事にも無頓着になり、好奇心や胸の高鳴りが薄れていく。新しいことをはじめることが面倒くさくなり、何かと学ぼうという意欲が低下し、若かった昔を懐かしむようになる…などという。
若い人は、これからほんとうの人生を歩き出すのだから、希望に燃え将来を輝かしいものにするために好奇心に富んだ活動をする。一方の六十代、七十代の人は、人生の輝くときを終えたので落ち着き、物事に動じなくなる代わりに心も硬直する…、と考えられがちだ。実際、このような違いを見て、若者と年輩者を「分類」するのが一般的だろう。
しかし、果たして、そうだろうか。私の目には、二十代でも心が硬直している人が大勢いるし、六十代でも瑞々(みずみず)しい心の人が、大勢いるように見える。現代はとくに、「若年寄り」やら「老青年」をやらが入り交じり、若者と年輩者を分類するのが困難になっている、というのが実態ではないだろうか。もちろん、従来のイメージに沿った若者や年輩者もいるが、、以前ほど明確には分類できないように思う。
これは、両者の人生観の違い大いに関与していることは間違いない。
こういっては何だが、六十代、七十代になると、自分の寿命と相談して、死ぬ前にこれだけのことはしよう・・・という目標が生まれる。若いときにやり残したこともある。そういう気持ちがあると、心も、若いころの好奇心や柔軟性がもどってくる。
ところが、若くて体力も知力もある人でも、人生の目標が見つからないと、「宝の持ち腐れ」のような状態になる。自分でテーマを決めて行動すれば、若者らしい瑞々しさにあふれるのだろうが、テーマを見つけられないために、心がすっかり硬直してしまうのだ。ほんとうに、もったいないと思う。
心をいつまでも瑞々しい状態にしておくコツ。それは、好奇心つきる。
そのためにも趣味が必要なのであり、人生のテーマが必要なのである。ふしぎなことだが、一つのことに打ち込むと、次から次へと疑問が生まれてくる。なぜか…と、好奇心が湧いてきて調べようとする。この活動が脳への刺激となる。
好奇心が枯れない人の心は、いつまでも若い。話題も増える。多くの人と出会えば、新たな好奇心も湧く…と循環し、これが心の若さを保ち、人を引きつける。好奇心が湧かない人は、実年齢が二十歳だとしても老化がすすむ。
話題が乏しい人というのは、そういうことだから、要注意だ。
【「幸福とは何か」を、考えずにいられる幸せ】
グチの多い人のまわりには、人は集まらない。いつも不機嫌な人にも友人は少ない。なぜかといえば、いっしょにいたら、自分の心も沈んでいくからだ。そればかりか、「そんなに悪いことばかり、つづかないわよ。そのうちきっといいことがあるから…」などと、それなりの慰めの言葉もかけなければならない。
人を慰めるというのは、相手の気持ちを推し量りながら言葉を選ぶという作業である。自分の心が沈んでいるのに、さらに苦行をつきつけられたようなもので、気持ちが晴れることもない。そんなことがつづけば、もうあの人には会いたくない、と思うのが成り行きだろう。
自分は、どんな人といっしょにいたいのだろうか…と考えてほしい。
おそらく、幸福感にあふれている人だ。客観的に見れば、その人自身は見るからに幸福そうに生きている。そういう姿の人に会うと、こちらの気持ちも晴れやかになるからふしぎだ。幸福の種をもらったような、予想外の得をしたような気になり、離れがたいものだ。
幸福の種を与えてくれる人には、また会いたくなる。反対に、不幸ウイルスをばらまく人のまわりからは人が去る。こちらの気持ちを楽しませ、晴れやかにしてくれる人には近づくが、こちらの気持ちを沈ませ、苦痛を伴わせる人とは離れていたい。人と人との関係というのは、基本的にはそういうことだろう。
ちなみに、「幸福とは何か」と問われて、「幸福について考えずにすんでいること」と答えた人がいる。なるほど…と思う。幸福感にあふれている人というのは、おそらく、「幸福とは何か」などとは考えずに、ただひたすら、自分が楽しいことをやっているという人だろう。その姿が、人からは幸福そうに見えるということだ。
鉄道マニアのなかには、ガイドブックどころか「時刻表を見ているだけで幸せ」という人がいる。彼らは、時刻表を見ながら「長野新幹線から、特急に乗り継いで富山…」。そうそう富山でますのすしを食べなくちゃ」と考えるだけで涎(よだれ)が出てくるというから、ほんとうに幸せ者なのだろう。さまざまな事情で旅に行くことができなくとも、自分がもてる時間と想像力を駆使遊ぶ、そういう人は、見るからに幸せそうな姿をしている。
楽しい想像をすること。それだけで、よからぬ想像をして、落ち込んだり悩んだりする時間がなくなる。短時間でも熱中すれば、ストレス解消にもなる。
ちいさな喜びを大切にしたいものだ。人は、そういう人といっしょにいたいのだ。
【自分をほめられる人は幸せ、それを見ている人も幸せ】
みなさんは「自分で自分をほめる」ことがあるだろうか。
ある人に命令されたことをやりとげれば、その人からはほめられる。まわりの人からの要求を全面的に受け入れて行動すれば、周囲からの評判はよくなる。しかし、その結果が自分にとって愉快でなかったり、自分をほめられないものだったら納得できないだろう。
人が評価してくれなくても、自分が納得できれば、そのほうがずっと幸せである。
自分で考え、自分で努力し、その結果に納得する。自分の心に向かって、
「おまえ、よく頑張ったなあ、よくやったなあ」
と、しみじみと話かける心境というのは幸福感にあふれている。
何事にも自信がもてない人は、人の言葉に影響されやすい。
「それはリスクが高いわよ」
「こっちのほうが楽しいじゃないの」
といわれると確かにそうだな…すぐに「その気」になり、人の意見に従う。それは、甘い水に誘われてふわふわ飛んでいくホタルのようなものだ。
人の意見に耳を傾けることは大切だが、それは人の意見に引きずられることとは違う。自分の活動が、人の意見に従って行われるというのであれば、自分の心はいつまでも納得できない。予期せぬトラブルが起きれば、すぐにパニックになるだろうし、失敗すれば意見をいった人のせいにする。
これでは満足感を得られないばかりか、人間的な成長もない。
有森裕子さんが「自分で自分をほめたい」といったのは、確か、アトランタ・オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得した直後である。金でも銀でもなく「銅」である。有森さんにとっては、銅でも十分に納得できたのであろう。
私たちは二時間半のレースを見て、「勝った」「負けた」といっているだけだが、有森さんはおそらく、ケガとの闘い、精神的プレッシャーとの闘い…など、レースの結果とは別のことでも闘ってきたはずである。
マラソンだからというわけではないが、文字どおり、「遠い道のり」をやり終えたたことに満足だったのだろう。思えば遠くへ来たものだ…。おそらく、そんな心境だったのではないか。
自分をほめられる人は幸福である。そして、自分をほめられる人を見ている人もまた十分に幸福なのではないだろうか。