仕事机の上が散らかっている人は、頭の中も散らかっている。
そのために、よくもの忘れをする人でもある。
約束していた仕事を忘れ、約束していた期日を忘れ、約束していた買い物を忘れ、電話する約束をしていたことを忘れ、資料を送る約束をしていたことを忘れる。そうやって人に迷惑をかけている。
当然のことながら、周りの人からは信用されなくなる。「あの人ってだらしのない人なのよ。大切なことは任せられないわよ」「あの人がだらしのないのは、机の上を見ればわかるじゃない」なんて噂が立つようになる。
「机の上がゴチャゴチャなことと、私が忘れっぽいってこと、どういう関係があるのよ。むりやりに、こじつけないでよ」と反論したくなる気持ちもわかるが、やはり机の上と忘れっぽさには相関関係があると、私も思う。
理由、その一。机の上が散らかっていると気も散って、大切なことをつい忘れる。
理由、その二。机の上が散らかっていると、備忘用のメモがいつの間にか、どこかに消えてしまうことがよくある。
一度、机の上をこまめに整理する習慣を、ひと月ほど続けてみてはどうか。「あ、うっかり忘れてました」といったトラブルが奇跡的に減少するはずだ。「要らないモノは捨てる」ことの効用が実感できる。
ところで大切な要件はメモに書き、どこかよく目につくようなホワイトボードか何かに張り出しておくという人もいるだろう。
私はボードではないが、食堂の鳥にくわえさせておくことにしている。鳥とはいってももちろんホンモノではなく、口でパチンとメモ用意を挟んでおくための物だ。食事のときにチェックして「うっかり」が起こらないように注意しているわけだ。
さてそのとき、それこそうっかり忘れがちなことがある。大切な用件のメモをそれにくわえさせておくことは忘れないのだが、必要のなくなったメモは破り捨てておくということを忘れがちなのだ。
これを忘れていると鳥の口がメモ用紙でゴチャゴチャになってゆき、大切なメモを見落とす原因にもなりかねない。
ボンヤリしているから机の上が散らかるのか
野口悠紀雄さんの著書、『「超」整理法3』の中に、こんなことが書かれている。
「学者の仕事部屋は、とくに乱雑だ。エール大学における私の指導教授の研究室は、論文や書類が机の上からはみ出して、直接に床の上に置いてあった。だから、人口のドアから教授の机までたどり着くのは、曲芸だった」。
私自身、大学病院に勤務していたこともあり、ある私立大学で教鞭をとっていたこともあるから「学者の仕事場の乱雑ぶり」は、よく知っている。これに関しては古今東西変わりはないようで、ゴミ集積所といいたくなるくらいの乱雑ぶりだ。
さて、なぜここで大学教授の話を持ち出したかというと、とかく学者というのは、忘れっぽい、ボンヤリしている、ということで笑いの種にされることが多いからだ。こんなジョークがある。
ある学者がレストランへいって、そこを出ようというとき、給仕が声をかけた。
「先生、何かお忘れではないですか」
学者はムスッとして、
「いつも通り、チップは渡したぞ」
「いいえ、お食事を召し上がるのをお忘れになって、お帰りになろうとしています」こんな話もある。
学者が家に帰ってきたが、朝もって出た傘をどこかに置き忘れてきて、どこに置き忘れたのかもわからないという。
そこで奥さんが、「それじゃあ、どこで傘がなくなっていることに気づいたんですか」と問うた。その学者先生、答えていわく、
「雨がやんでね、さあ傘を畳もうかと思ったんだが、そうしたら手に傘がないことに気づいたんだ」
雨がふっても、雨に濡れても、傘を差すことすら忘れ、雨がやんでやっと自分がどこかに傘を置き忘れてきたことに気づいた…と。
なぜ学者というのは、こう忘れっぽいのか、ボンヤリしているのか。研究テーマに没頭するあまり、いつも心ここにあらずだからか。
そういう考え方もできるだろうが、やはり私はそれ以上に、乱雑な生活が影響しているのではないかと思う。身の回りの散らかし放題が原因なのではないか。「乱雑性物忘れ症候群」とでも名づけたいようにも思うのである。
これについては、もう少し話を続けたい。
散らかった机で仕事をするほうが、いい仕事ができる?
夜型人間は、「夜のほうが集中力が増し、仕事がはかどる」という。だから夜働いて、昼はボンヤリしている。小説家や画家といった自由業に就いている人には、このタイプが多そうだ。
しかし、ある脳の専門家にいわせると、これは大きな勘違いなのだそうだ。ためしに被験者を募って、夜と昼、簡単な計算問題をやらせる。解答できた計算の量と、正解率にどのような差が見られたか。
ほとんどの人が昼にやったほうが、夜やったときよりも、たくさんの計算をこなすことができ、また正解率も高かった。
つまり昼のほうが、人間の脳はよく働いている。そして夜は人間の脳は活動がにぶる。昼によく働き、夜になったら休むという、自然なリズムが人の脳には出来上がっているのだ。
「夜のほうが仕事がはかどる」という人たちに同じ実験をやらせてみたら、やはり結果は同じだという。実際には昼のほうが、脳はよく働いている。そうなると夜型人間が「夜のほうが」というのは本人の大きな勘違い、ただの思い込みということになってくる。
それと似たような「思い込み」が、何かと散らかし放題にしたがる人にもあるのではないか。
ある人いわく、「身の回りが散らかっているほうが、気持ちが落ち着く。あんまりきれいに片づけられていると、かえって気持ちが落ち着かなくなるんです」。
またある人いわく、「モノが散乱している机のほうが、思いがけない、いいアイディアがひらめくような気がします」。
いやいや、これも「思い込み」にすぎないのではないか。
これも私の見てきたところからいえば、たとえば学者の仕事部屋が散らかり放題になってゆくのは、たいがいは仕事にゆき詰まっているからである。
「朝から机にかじりついているのに、ちっともアイディアが浮かばない。ああ、どういうことだ」と気持ちがいら立っているから。
レストランに入ったのはいいけれど、食事をするのを忘れて出てくるような先生。雨がふっているのに、傘を差すのを忘れているような先生。そんな散らかり放題の仕事部屋で働くボンヤリ先生に、いいアイディアが浮かぶと思いますか?
気持ちが落ち着くというのは、ただ思考力が落ちて、頭がボンヤリしているだけのことなのではないか?
ビジネスマンの諸君も、そんなボンヤリ先生の真似をするようなことはおやめなさい。発想がひらめくどころか、能率や意欲を停滞させてしまう恐れのほうが大だ。
気持ちが落ち着くどころか、仕事がうまくゆかず、「うっかり忘れてました」で上司から叱られ、ストレスを溜めるばかりだろう。
「捨てる」と、暮らしにゆとりが生まれる
何かと不要なモノを溜め込む人は、「どうでもいいような用件」を溜め込む人でもある。手帳はいつも予定でいっぱい。芸能人でもないのに、分刻みのスケジュールをこなしている。
とはいっても暮らしに充実感があるわけではない。毎日がバタバタとすぎ去ってゆく。自分でも何をしているのか、自分はいったい何をしたいのか、よくわからない。忙しいが、むなしい。
きっと、そんなあなたは、人から「これあげる。これもらってくれない」といわれるモノはなんでもかんでも「ありがとう。ちょうどほしかったのよ、これ」と喜んでもらってしまう習慣があるはずだ。
そうやって身の回りには、どうでもいいようなモノが溜まってゆく。周りの人たちからは廃品回収業者のように見なされてゆく。
それと同じように、人から「ねえ、あなたもいかない。つき合って」と誘われることにも、ふたつ返事で「いくいく、私も」と答えてしまう人だ。
だから「どうでもいいような用件」を溜め込んでバタバタと慌(あわただ)しい暮らしを送ることになる。
もう少し、ゆとりのある生活を送りたいと願っているのであれば、まずは人が「あげる」というモノを、もらうことをやめることから始めたらどうか。
それと同時に、人からのお誘いにも、ふたつ返事でOKといわないようにすること。
「ちょっと考えさせて」といっておいて、そのことへの自分の関心度と、時間的な都合をよく考えながら「ぜひ、ゆきたい」ということだけ、「先日の件だけど、私もゆくわ」と答えればいいではないか。
一度「いく」と約束したことでも、ちょっと忙しすぎて心も体もつらくなってきたときは、正直にそのことを打ち明けて「ごめんね」を予定をキャンセルしたっていいではないか。
手帳から、捨てられる用件は捨てる。
これは、ゆとりのある暮らし方をするコツだろう。
「捨てる」と、大人としての自覚が芽生える
「捨てられない人」「片づけられない人」は、精神的に大人になりきっていないところがある。遊んだオモチャをそのままにして、どこかへ遊びにいってしまう子供のようなところがある人なのだ。
きっと職場では、同僚からの「ちょっといこうか、ビールでも」と誘われれば、「いいね、いこう」と机の上のやりかけの仕事はそのままにして、さっさと職場をあとにしようとして、上司から「帰るんなら、机の上をきれいにしてからいけよ」と叱られている人に違いない。
身の回りがゴチャゴチャしているほうが「なんだか気持ちが安らぐんですよねえ」という人もそうだ。その人にあるのは、幼時回帰願望である。
子供はモノを片づけることができない。いつもゴチャゴチャした環境の中にいる。
そういう子供の頃に慣れ親しんだ環境に戻りたいという願望。こういう人は、見かけは立派な大人なのかもしれないが、甘えん坊だ。