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button-only@2x 使っているうちにモノへの愛着が生まれる

私は、いったん使い始めたモノは、浮気せず、長いこと使うほうである。

母の輝子の場合はボストンバックの使用期間は二年だったが、私の場合は少なくとも十年は使った。ボロボロになるまで、だ。

戦後、免許を取って初めて買った自動車は、イギリスのシンガー・モーターズという会社が製造した外車だったが、これは19万3千キロも乗った。

これだけ乗るとガタもくる(というよりも中古車で買ったので、最初からガタがきていたのだったが)。しょっちゅう故障する。また箱根あたりに遠出するときは、湯本あたりで車を止めてエンジンを冷やさなければならなかった。

ときにはバケツで川の水を汲んできてかけてやらなければならなかった。しかし、そんなガタガタの自動車でも、手間をかけて長年乗っているうちに愛着がわいてくる。

思うのだが人は、たとえボロボロ、ガタガタであっても、愛着のあるモノに囲まれて暮らすほうが幸せなのではないか。

こうってはナンだが、夫婦だってそうである。長年連れ添えば連れ添うだけ、相手への愛着が生まれる。

「おれの女房はボロボロさ」「私の亭主はガタガタよ」とつれないことをいいながら、

そんなボロボロ、ガタガタの関係ができ上がった夫婦には、若い人たちには獲得できないと幸福といったものがある。

人と人との関係がそういうものならば、人とモノとの関係もそうなのではないか。

たしかに新しくて、まだピカピカしているモノを買ってきて身近なところへ置いておくと気持ちも幸せになってくる。

ショッピングも楽しい。

しかしそれは束の間の楽しさ、いっときの幸福感でしかない。

あした、あさってになれば、はかなく消え去る。

だからまた新しいモノを買ってきたくなる。買って買って買いまくって、家にはモノがあふれ身動きもできないような事態になる。

使い捨ての時代といわれて久しいが、私にいわせてもらえば、使い捨てじゃない。

使わず捨て、だ。いや往々にして使わず溜め。

買ってきたモノを梱包も開けずに、そのまま部屋の片隅に放りっぱなしにしている人だって、どこかにいそうだ。

「買い物依存症」という言葉もあるが、はかなく消え去る、束の間の楽しさ、いっときの幸福感ばかりを追い求めてゆくから、そういうことになる。

使い込んでゆけば、それなりに愛着がわいてきて、おいそれと押入れなんぞに放り込んで、そのままにしておくことなどできなくなる。かわいく思えてきて、いつも身近なところに置いて使っていてやらなければ申し訳ないような気持ち。

だから新しいモノを買ってこようとも思わない。

だから不必要なモノが溜まることもない。

新しいモノがほしくなっても、少しだけがまんしてみたらどうか。そして、いま使っているモノをもう少し使い続けてみたらどうか。

愛着が出てくるまで、である。そうすればもう新しいモノに、むやみに買い替えたくなる気持ちも薄らいでゆくだろう。

これも夫婦関係と同じ。新婚当時の幸福感など、はかなく消える。しかし、そこからどう考え、どういう関係を作り上げてゆくかが、二人の人生の分岐点なのである。

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モノは使ってこそ、人に役立つ

「もったいない」という言葉から、私は母の輝子を思い出す。

明治生まれの人はだれでもそうだったのだろうが、母はそれこそ「もったいない精神」のもち主で、だれもいない部屋に電灯がついていないかと家の中を歩きまわる。

電灯がついていたりすると「もったいない、もったいない」とつぶやきながらパチッと消してゆくのだ。水道の水がチョロチョロと流れているのを見つけても、あわてて

「もったいない」と、キュッと閉め直す。

だれが母にそんなことを教えたのか知らないが、ある日突然「お茶の出し殻にも、まだ栄養がたくさん残っているんだ」といい出して、だから捨てるのはもったいないと出し殻を乾燥させてフリカケにして私たちに食べさせた。

「もったいない」のはいいのだが、おかげで家族全員が胃の具合を悪くし、消化不良をきたすことになった。そこで私はこれに「母原性消化不良症候群」という病名を与えた。

さて、そんな母はモノに関しても、「自分はモノをムダにすることが嫌いです。モノは長く使います」と公言していた。

だが、母はモノを使うのが不器用なほうで、自分では大切に長く扱っているつもりでも、実際にはすぐにモノをダメにした。旅行用のトランクなどは、だいたい買ってから二年ぐらいしかもたない。カメラなどもすぐにダメにして、よく買い替えていた。

とはいえ先ほども述べた通り、使わないでモノをダメにするよりも、使ってモノをダメにするほうが、モノを大切にすることにつながる。

その意味では、母はやはり、もったいないことはしなかった。モノを大切にする人であったと思うのだ。要は、自分なりに大切にすればよい。

手先が器用でモノを長持ちさせることができればそれに越したことはないのだろうが、不器用ならば不器用なりに大切にすればよい。そして「大切にする」とは、イコール「使う」ということなのである。

「もったいない精神」を実践しようとするとき、私たちはえてして理想論に陥りがちだ。たとえば不浄な話で申し訳ないが、むかしは新聞紙を捨てるのが「もったいない」とトイレの紙に使う家庭も多かった。いま古新聞紙を、そういう使い方にする家庭はないだろうし、せよといってもムリな話だろう。

しかし古紙をリサイクルに出して、再生紙として使ってもらうことはできる。

自分にできる範囲で、自分なりにすればよい。

大根の葉っぱを捨てるのはもったいないとはいえ、料理が苦手でゴマ油炒めなんてとてもできそうもないという人は、大根の葉っぱは捨ててしまってもいい。

そこで「もったいないから、とりあえず取っておこう。あとで料理の仕方をだれかに教わって料理しよう」などと考えるから、冷蔵庫の中で食べられなくする。そういう気分的な願望がゴミを作る素だ。

着なくなった背広はリサイクルに出そうと考えるのは立派だが、忙しくて、そういうモノを回収してくれるリサイクル業者を探している暇がない。そうであれば仕方ない、捨てたってかまわないのではないか。

「もったいない」とは、行動が伴わなければ意味がない。自分にできないことは、しないことだ。これも「もったいない」の上手な実践法だろう。

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要らないモノを、もらってくれる相手はいないか

考えてみれば「もったいない」を実践することは、なかなか骨が折れることである。

知識と工夫と努力と、そして何よりも熱意が必要だ。

この熱意に欠ける人がよくいうのが、「捨てるのはもったいないから、だれかにあげようと思っているの」だ。

この「だれかに」がクセモノなのである。いつまでたっても「だれかに」であり、一向に具体化しない。したがって要らないモノはいつまでも、どこかに山積みにされたまま放置されることになる。

「もったいないから、だれかにあげる」とひと口でいっても、面倒なことがたくさんあるのだ。

たとえばリサイクルに出して、必要な人にもらってもらおうと思う。

とはいえリサイクル業者といっても、なんでもかんでももっていってくれるわけではないだろう。うちは家電製品、うちは古紙と、それぞれ専門分野がある。はたして自分がいま引き取ってもらいたいと思っているモノは、どこのリサイクル関係者がもっていってくれるのか。住所は、連絡先は、自分の家まできてくれるのか、こちらからもっていかなければいけないのか。

それに無料でもっていってくれるのか。それともお金がかかるのか。お金がかかる場合は現金で支払えばいいのか、それとも何かシールのようなものを買ってそれを引き取ってもらうモノに張りつけておけばいいのか。モノの出し方は、どうするのか。

そんなリサイクル情報は、集めてくるだけでもけっこうな手間だろう。

その手間を惜しまないというのであれば「だれかにもらってもらう」ことは、大いにけっこうなことである。それに越したことはない。

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要らないモノを、お金に換える方法はないか

ゴミとなって燃やされたり、どこかに埋められたりするよりも、どこかにだれかもらってくれる人がいるならば、モノとしても満足だろう。

捨てることに良心の呵責(かしゃく)をおぼえることもない。こちらとしても、喜んで「いってらっしゃい」と、我が家からモノを送り出すことができそうだ。

しかし、その「だれか」を探してくるのが面倒臭くて、「捨てるのはもったいないから、だれかにあげる」とはいったものの、ついそのまま要らないモノを溜め込んでいる人もいる。それでは困る。

ちゃっかりした人ならば、要らなくなったモノを捨てるのにお金を支払うなんて、もったいない。そのモノを売って、むしろお金に換える方法はないかしら、と考える。

たとえばフリーマーケットに出品する。

たとえば、インターネットを使って自分で売る。

たとえば、インターネットを使って自分で売る。

ところで、そのためには警察へいって、古物商の免許を取得してこなければならない。古物商の免許はありますか。

ないなら、すぐに取らなければならぬが、しかし警察まで出向いてゆくのが面倒臭くて、これまた要らないモノをそのまま溜め込んでいるという人もいる。

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「もったいない」で「ありがた迷惑」になってはならない

リサイクル業者を探し出してくるのも面倒だ、古物商の免許を取ってくるのも面倒臭い。そんなことに時間を奪われるよりも、友だちとどこかへ遊びにゆきたい。観たい映画もある。さてそこで友人や親類、ご近所さんなど、だれか身近にいる人に「ねえ、これね、うちじゃあ使い道がなくて、あなたよかったら、もらってくれない」と訊きまわる。

しかしこれは往々にして「ありがた迷惑」になりがちだから要注意だ。

考えてみれば図々しい。

「この缶詰、賞味期限ギリギリだけれど、まだまだ食べられるわよ」といいながら自分では食べず、「どう、おいしいでしょう。あなたぜんぶ食べていいのよ、私食べないから」とやっているようなものだ。

まだ日本が貧しくてモノが不足していた時代ならいざ知らず、自分が「使い道がない」と思ったモノを、はたして喜んでもらってくれる人がいるのかどうか。

ちなみにいっておけば、これは聞いた話だが、「リサイクルして有効活用させてもらいます」と引き取られていったモノも、その大半は、焼却処分、埋め立て処分されてしまうのが、残念ながら現状であるそうだ。

さて、「もったいないから捨てたくない」という気持ちはわかるが、「もったいない」にも色々と諸問題があるということを述べてきた。

まとめておこう。

◉「もったいない」は、徹底的にモノを使い切る技術、使い切って捨てる技術である。捨てないで、取っておく技術ではない。

◉モノは使わないでいると品質が悪くなってゆく。モノを大切に思うのであれば「使うのは、もったいない」などと考えず、どんどん使い込んでゆくほうがよい。

◉使い込むことで、モノへの愛着が生まれる。次々と新しいモノに買い替えてゆくよりも、たとえボロボロガタガタのモノであっても、愛着のあるモノに囲まれて暮らすほうが、人間幸せである。

◉「捨てるのは、もったいない」でリサイクル業者を探す。インターネットなどで、自分で売ろうと思う。もらってくれる人を探す。しかしそれは面倒なことだし、ときにありがた迷惑にもなりやすいことを、おぼえておこう。

◉「もったいない」は、自分のできる範囲で実践しよう。できないことは、しようと思わないこと。そのときは、いさぎよく捨てること。

◉自分にできないことをしようと思うと、「もったいない」でモノを疎かにすることになる。ムリは禁物。

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「捨てられない」は老化現象のひとつ

私は「捨てられない」というのは、人の老化現象のひとつだろうと考えている。

人間、年を取ると、だんだんモノを捨てられなくなる。「思い出のある品物だから」と年寄りはいうが、なに、そんなことはない。

ほんとうのことをいえば「捨てる」ことが、ただ億劫なだけ。

「捨てることなんて簡単なことじゃないか」というかもしれないが、仕分けをし、紐で縛り、梱包し、もち運んでゆく、これだけでもそうとう億劫なのだ。

いや、そんな肉体的なたいへんさよりも、精神的に億劫なのかもしれない。

私も四谷から府中へ大引越しをしたときは、たいへんだった。

なにしろ長年暮らしてきた家である。それでなくてもモノがたくさん溜まっている。捨てなければならないモノも、たくさんある。

のみならず父の茂吉に関係するモノも膨大にある。自分のモノならいざ知らず、茂吉のモノとなるとおいそれとは捨てられない。これは捨てていいモノか、保管しておかなければならないモノか、よくよく吟味しなければならなかった。

そのことを考えるだけで、億劫になり、ヘトヘトになってくる。実際に作業に取りかかってヘトヘトになったわけではなく、考えるだけでヘトヘトになってくるのだ。

おかげで私は、うつ病になりかけた。名づけて、引越しうつ病である。

おかしなことだが、そんな私がうつ病になりかけただけで、実際にはならずに済んだのは、引越してしまったからである。

行動に移してみれば、なんのことはないのである。

考えることが億劫なのだが、これも老いて気力がなえた証しだったのだろう。

ところでまだ若いのにモノを捨てるのを億劫がり、至るところに不要なモノを溜め込んでいるあなた。

すでにあなたには老化現象がそうとう進んでいますよ、といっておこう。

スポーツクラブにでも通い、体を動かし汗を流すことをしたほうがいいのではないか。

食事も栄養のバランスのいいものを、三食きちんと摂るようにすること。

なんにでも好奇心をもち、新しいことにチャレンジするようつとめることも大切だ。

趣味をもつのもいい。

家に閉じこもるのは、よろしくない。外出する機会を増やし、人間関係も広げてゆこう。そうやって若返り対策でもやれば、いや心身年齢を実年齢の状態に戻す努力をすれば、「捨てる気力」もよみがえってくる。

身の回りの整理整頓もできるようになる。

小ざっぱりとした暮らし方をできるようになる。

たとえ年を取っても、要らないモノはどんどん捨てて、いつも身の回りをきれいにしていられる人は、まだまだ気力が充実している。心身ともに若い証しなのである。