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button-only@2x 「あとで後悔することになりそう」だから捨てられない

人間関係の「腐れ縁」であれば、別れるほうがいいかも、と思いながらもつき合ってゆくうちにほのぼのとした情が生まれ、一心同体のようになってゆき、強い絆を感じるようになり、別れるに別れないようになってゆくこともある。長年連れ添った夫婦など、まあ、そんなもんでしょう。

しかるに人とモノとは、どうか。そんな情は、モノとの関係においても生まれるのか。それはないだろうというのが、私の考えだ。

たしかにモノへの愛着、情といったものを感じることはある。しかしそれは、使っていればこそなのだ。

たとえば料理人が毎日丹精込めて研きながら、5年10年と使い続けている柳葉包丁に愛着や情を感じるようになるのはわかる。

社会人になった記念に買った万年筆、その後十何年も使い続け、いまはしばしばインクもれを起こすようになっているのだが、捨てるに捨てがたいという気持ちになるのもわかる。

しかし使いもせず、そこらに投げ出していたモノに何年か後、愛着を感じるようになるのかといえば、それはないだろうと思う。ジャマなモノは、やはりいつまでたってもジャマなモノなのだ。

したがって「捨ててしまったら、あとで後悔することになるのではないか」ということもありえない。

もし、たとえ「あのとき捨てないで、取っておけばよかった」と後悔するようなことになったとしても、それはそれで、いいではないか。

身の回りに要らないモノばかりが散乱し、右往左往し、バタバタし、イライラし、ストレスを溜め込む。そんな慌しい落ち着きのない生活から、いままで無縁でいられたことを考えれば、あきらめもつく。

後悔のひとつや、ふたつ、どうってことない。

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「捨てる力」は「あきらめる力」にあり

身内から要らないモノを一掃し快適な気分で暮らしてゆくために大切な心がまえは、私は「あきらめる」ことではないかと思う。

「あとで後悔するのではないか」と要らないモノをいつまでも取っておこうと思うのは、いわば「あきらめ力」が足りないのだ。

後悔することになるかもしれない。しかし後悔するかどうかなんて、あとになってみなければわからない。確実に後悔するとわかっていれば話は別。だが、わからないのなら、上手にあきらめて、捨ててしまったほうが気持ちがスッキリする。

もし後悔することになったら、同じモノを新しく買い直せばいいではないか。先々のことで、あれこれ心を悩ませないこと。

基準を作っておこう。

◉役に立っているモノは捨てない。

◉思い入れのあるモノは捨てない。

◉役にも立っておらず、思い入れもないモノは、捨てる。

これは、どうか。

「役に立っているモノ」を捨てなくていいというのは当たり前のこと。「思い入れのあるモノ」とは、たとえば、思い出のモノ、大切な人からもらったモノ、趣味でコレクションしたモノである。

こういったモノは、いま特別に何かの役に立っているわけではない、しまい込まれたままになっている状態であるかもしれないが、とはいっても私たちの人生を彩る大切なモノである。これは捨てるわけにはゆくまい。これを捨ててしまっては、自分の人生を疎かにしているのと同じことだ。

私などヒコーキが好きで、雑多なヒコーキグッズをあれこれと性懲りもなく集めてきた。プロペラ、座席、機長の制服、その他色々。女房にいわせれば「こんななんの役にも立たないモノ、ジャマになるだけだから捨てちゃえば」ということなのだろうが、そういうわけには断じてゆかない。

人にはどう思われようと、私には大切なモノなのだ。私に生きる喜びを与えてくれ、ときに疲れた私をやさしく慰め、あしたへの活力を注入してくれた大切なモノたちなのである。それを簡単に捨ててしまったら、神様の罰が当たる。

だいたいそういう女房でさえ、私に「捨てちゃえば」といわれるのが嫌だから、どこか私に見つからないところに、役には立たぬが彼女にとって大切なモノを隠しもっているに違いないのだ。

まあ人には、どなたにも、そのような自分ならではの思い入れのあるモノがある。これは捨てなくてもヨシだ。

そして「役にも立っておらず、思い入れもないモノ」は、捨ててヨシだ。

そういうモノは捨てたとしても、まあ、あとになって後悔することはない。長い私の人生経験から、そういっておこう。何日かたてば、それを捨てたことさえ忘れるようなモノなのだ。だから、どんどん捨てよう、である。

要らないモノを取っておくばかりに、身の回りがゴチャゴチャになり、間違って「役に立っているモノ」「思い入れのあるモノ」を捨ててしまう。

むしろこちらのほうが後悔しても後悔しきれない思いを残しそうで、心配である。

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あとで読もうと思っているうちに、どんどん溜まってくる

「捨てられない」理由に、そのほかにも、「あとでじっくり見ようと思っているから」、また「あとで役に立つかもしれないから」というのもある。

加工食品のように製造年月日や賞味期限が記載されていれば、それが捨てる捨てないの目安になる。ところが、そういった目安のないモノはどうするか。

たとえば「情報」である。

あした、あさってまで取っておいても腐るものじゃない。それに安心して、つい

「いま忙しいから、あとでゆっくり」となりやすいのだ。

新聞におもしろい統計資料が載っているぞ。商談のときの話題作りにでも使えそうだ。でもいま忙しいから、とりあえず横に置いといて、あとでゆっくり読もう。

あら、あそこの家電量販店で、薄型テレビの安売りですって。ちょっとテレビを買い替えようかと思っていたところなの。でも、これから晩ごはんのしたくをしなければならないから、あとで寝る前にでも、ゆっくり見よう。おや、家具屋さんの安売りもあるのね。これも、あとでゆっくりね。

この「あとで」がクセモノなのだ。

「あとでゆっくり」とはいったものの、あとでゆっくりできる時間などやってはこない。夜寝るまでバタバタが続き、次の日も同じ。ずっとアタフタ、バタバタ、アタフタで日が明けて日が暮れての毎日なのだが、「あとでゆっくり見よう、読もう」というモノは情け容赦なく溜まってゆく。新聞が溜まり、広告チラシが溜まり、本、雑誌、報告書、パンフレット、招待状、広報誌、ハガキ、手紙と、突貫工事ではないが、あっという間にそこらじゅうモノの山やら谷やらダムやらができ上がってゆく。

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情報は手許に置いておけば安心? それとも不安

「情報」というものには、困った魅力がある。

とりあえず手許(てもと)に置いておくと、なぜか安心できるものだ。

たとえば会議だ。いまにも崩れ落ちそうな山のような資料を、よっこらせ、よっこらせと両腕で抱えながら、会議室へやってくる人がいる。

「あんなに沢山の資料を持ち込んで、いったい何に使うんだろう」と不思議だ。

実際には、使うことなどないのだ。使ったとしても、ほんの一部分だけ。だが本人とすれば、資料はたくさん手許(てもと)にあればあるほど、気持ちが落ち着くのだろう。

新幹線や飛行機に乗ると、座席に着いたとたんカバンから何かの資料を取り出すと、モノ置きの台をさっと倒して、その上に資料を置く人がいる。

とはいっても資料に目を通すわけじゃない。資料はそのままにしておいて、のんびりと幕の内弁当を食べ始めたりするのだ。

あれも、きっと無意識のうちに安心感を得るためにやっていることだろう。

私も、話のネタ集めのために新聞や雑誌を取っておく癖がある。

実際に原稿用紙に向かうときは新聞雑誌のみならず、国語辞典はもちろんのこと、類語辞典、反対語辞典、慣例句辞典に人名辞典、英和辞典に和英辞典と、たくさんの辞書辞典をはべらせておきたくもなる。使う使わないは別にして、ともかく辞書類がすぐ手の届く場所にあると安心感が得られるものだ。

しかし情報も、あまりにたくさん溜め込みすぎると、安心どころではない。不安感や焦燥感を巻き起こしてしまうのだから、要注意だ。

企画部門で働くある人には、知人が編集長となって新しく創刊された週刊誌が、毎週寄贈本として届く。ちょっと気になっていた雑誌だったからゆっくり目を通したかったが、その暇がない。とりあえず机の上に積み重ねておいたが、一週間など、あっという間にすぎ去る。それに伴って週刊誌も一冊溜まり二冊溜まりで、とうとう机の上に置く場所がなくなって、机の下に積み重ねておいたのだが、そこでもたちまち山のようになる有様。

さてある日、その人が席を空けているあいだに掃除の人がやってきて、捨てていいゴミかと勘違いして、週刊誌をまとめて処分してしまったという。

席へ戻ってきたその人、烈火のごとく怒ると思いきや、「ああ、よかった」と胸をなでおろす思いであったそうだ。

すぐに目を通してしまえばよいのだ。そうすれば、それが使えそうな情報なのか、使えない情報なのか、その場でわかる。そして使えそうな情報だけ残し、使えない情報は捨てればよい。

しかしなぜ、すぐに目を通すことができないのか。

先ほども述べている通りである。つい「あとで時間ができたときに、ゆっくり目を通そう」と安易に考えてしまうからである。