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— まえがき —

ストレスの原因には、様々なものがあるが、その大きなもののひとつに「人間関係」がある。職場の上司とうまくゆかない、部下がついてこない、同僚たちへの嫉妬や、羨望、夫婦関係、友人との関係といった問題。

しかし、最近、ストレスの原因が、ひとつ増えた。

「モノとの関係」である。

ある人は「職場の机の上の書類の山が、ときどき夢に出てきて、うなされることがある」といった。

ある人は、モノが散乱し、どこに何があるのか見当のつかなくなった仕事机のことを考えると、気持ちがなえて「会社に行くのがイヤになる」といった。

要らないモノがあふれ返った、散らかり放題の家から「逃げ出すことが許されるなら、いますぐにでも逃げ出したい」といった。

モノとの関係も、現代人の大きなストレスの一因になっている証しである。

それでなくてもモノがあふれているこの時代、「人と、どうやってつき合ってゆくか」と同時に、「モノと、どうつき合ってゆくか」という問題を真剣に考えなければならなくなったようである。

考えてみれば、むかしはよかった。モノが少なかったから、モノにふりまわされて右往左往することなどなかった。

たしかにモノが豊かになったことは、私たちの生活を便利にしたが、心から、ゆとり、余裕といったものを奪ってゆくようである。

さて、いかにストレスなく、モノと上手につき合ってゆくか。

そのコツをここで、いくつか箇条書きしておこう。

◉不要なモノ、思い入れのないモノは捨てる…ストレスが軽減される。

◉捨てることを「もったいない」と思わない…モノを大切にする心が養われる。

◉書類で散らかり放題になった仕事机を整理する…それだけで人間的に成長する。

◉虚栄心からモノを増やさない…自分らしい暮らし方を楽しめるようになる。

◉「増やす」より「減らす」に重点を置く・・モノへの愛着が生まれる。

◉モノの扱い方について「家庭憲法」を作る…家が快適なくつろぎの場となる。

ところで、人との付き合いでは絶対に許されないことが、モノとのつき合いでは許される。それは「捨てる」ということだ。

人間関係がわずらわしくなったからといって、人とのつき合いを「捨てる」わけにはゆくまい。しかしモノは捨てようと思えば、いつでも捨てられる。それを考えれば、気が楽ではないか。

しかるにモノも「捨てられないのだ、捨ててはいけないのだ」と頭から決め込んでしまっている人も少なくない。

まずは、その誤解を解くところから話を始めよう。

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心地よく暮らすために –捨てる–

だれもが「心地よい暮らし」を望んでいる。

時間的にも、空間的にも、精神的にも。ゆとりのある暮らし。楽々とした暮らし。

すべてがスムーズに運ぶ、順調な暮らし。てきぱきとした暮らし。

しかしどっこい、そうはゆかない。これまた多くの人が、そういう暮らしを夢見ながら実現できないでいる。

なぜだろう。その原因のひとつに「捨てられない」という現実があるのではないか、というのが私の意見だ。

見渡せば要らないモノばかり、職場の机の上は、会議で使った資料。なんに関する書類なのか。すぐには判別できなくなった書類の山。

そんな資料や書類に紛れて、散らばっている文房具の数々。散乱したメモ書き。書き損じた経費の精算書。

家に帰れば家に帰ったで、そこも職場の机の上と似たり寄ったりの状況。

ここ一年、いやもう二年以上、一度も着ていない衣類。捨てようと思って、そこに置いたままになっているタオル類。読み終えた新聞や雑誌。DMや広告チラシの山。手紙やハガキの山。

壊れたまま放り投げてある電化製品。梱包をほどいてもいない、人からのもらいもの。そんなモノの山々が至るところで山崩れを起こしている始末である。

まあ、こんなゴチャゴチャ、ゴミゴミした状況の中では、とてもとても「心地よく暮らす」ことなど、できまい。

朝っぱらから、きのう財布をどこに置いたのかわからなくなり、探しているうちに遅刻しようになり、あわてて職場に駆けつけると机の上に積み上げておいた書類が崩れている。

朝一番の仕事は書類の片づけで、そのうちに肝心の仕事が遅れ遅れになり、周りからあきれた眼差しを向けられる。

名誉挽回と残業をやってがんばり、疲れた心と体を引きずってまたあのゴチャゴチャしたモノが至るところにあふれている我が家へ帰る。

「あーあ」ではないか。書いている方も疲労が倍増してきそうである。「心地よい暮らし」からはほど遠い。

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捨てなければ、問題は解決しない

「心地よく暮らす」ためにも、ゴチャゴチャに散らかった不要なモノどもを早く、どうにかせねばならない。

「そうだ整理しよう、ひとまとめにしておこう」。

しかし、それだけでは、根本的な問題は解決しない。それではただたんに、「積み重ねておく」になりがちだからだ。

ギリシャ神話に「シシュポス」という人の話が出てくる。

神から「あの山へ意思を積み上げよ」という罰を受ける。積み上げ終われば罰から解放されるのだが、あともう少しのところで石は崩れ落ちてしまい、また一からやり直さなければならなくなる。結局永遠に石を最後まで積み上げることはできず、罰から解放されることもないという話だ。

不要なモノをただ整理する、ひとまとめにするだけでは、このシシュポスの話と同じことになってしまうのだ。

整理したモノはまた収納からあふれ出し、ひとまとめにしたモノはあちこちで崩れ始める。

「要らないモノは捨てる」

これをしなければ結局は、元の木阿弥(もくあみ)となるだけだ。

あえていえば、こうである。

「捨てて–整理する」

「捨てて–片づける」

「捨てて–まとめる」

もったいない、なんていってはいられない。

捨ててしまったら、あとで後悔することになるんじゃないか、などと心配なんてしていられない。

ともかく「捨てる」ということが伴わなければ、どんなに必死になって整理整頓しても徒労となる。「心地よい暮らし」は永遠に、実現できない。

「ゴチャゴチャの罰」から免疫されることはない。

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「捨てられない」で犠牲になるのは「時間」「お金」「心の健康」

それでは不要なモノを捨てられず、ゴチャゴチャした環境の中で暮らすデメリットを、ざっと列挙しておこう。

◉捨てられないために–貴重な時間を浪費する。

◉捨てられないために–せっかくの儲け話を逃す。

◉捨てられないために–心の健康が損なわれる。

「えーと、えーと、あの書類どこだったかしら。たしか、このあたりにあったはずだけど」と、散らかった書類をあっちこっちとひっくり返して「あの書類」を探し出す。

このドタバタで、どれほど時間を浪費していることか。

探し物をしている時間に、たとえば仕事の電話を一本入れることができていたかもしれない。その一本の電話をし損なったばかりに、有利な商談を逃していたかもしれないではないか。

そして何よりも、心の健康にも害を与えているといわざるをえない。

探し物が見つからないときのイライラは、みなさん、身におぼえがあるだろう。そのイライラが「たまに」ならまだいいが、いつも身の回りがゴチャゴチャ状態であるために「しょっちゅう」となると、そのストレスのために心身のどこかに歪みが生じていたとしてもおかしくない。

一度、想像してみよう。

仕事机の上には何もない。書類の山も、散乱したメモも何もない。まるで机が「さあ、ここで思う存分、仕事をしてください」と手招きしてくれているようだ。

文房具は所定の場所に、ちゃんと置いてある。必要なものは、すぐに手許に取り出せるよう準備されている。仕事を滞らせるようなものは何もない。

机の横のほうに捨てずに置いてあった雑誌にチラリと目がゆく。裏表紙一面に掲載されているビールメーカーの広告。人気俳優が大きなジョッキでぐいぐいとビールを飲んでいるその姿に、「ビール、飲みたいなあ」となって、気を散らされて仕事を中断されるようなことも、もはやない。

カード会社からの請求書が見つからなくなって、ちゃんとお金を銀行に入れておいたかどうかが心配になって、気をもむことも、もはやないのだ。

我が家にも、不要なものは一切ない。

広々とした、まるで初夏の高原にでもいるかのような、清々しい空気。しかも生活に必要なものは、必要な場所にちゃんと揃っている。しかもゴチャゴチャと、ではなく、スッキリと収まっている。

「なんてステキな生活だろう。心の落ち着く、安心感がある、心地よい暮らしだろう」

と思うのではあるまいか。

さて、そのためには要らないモノを捨てることから始めよう。

しかしこの第一歩で、多くの人たちがつまずくのだ。

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人とモノとの腐れ縁を断ち切る

ある人は「捨てるモノがいっぱいあるのはわかっているんですが、いざ捨てるとなると、捨てられなくなるんです」といった。

なかなか複雑な人間心理ではあるが、その気持ちはわかる。

人間関係には「腐れ縁」という言葉がある。

一度は惹かれ合った関係にあったのだが、いまはもうお互いにしっかりさめた気持ちになっている。お互いの今後の人生のために別れたほうがいいと心のどこかで思っているのだが、実際には別れ話はいい出せない。ズルズルと、いままで通りの関係が続いてゆく。

人と人との関係ばかりじゃない。人とモノとのあいだにも、そんな「腐れ縁」があるのだ。

一度は「こんなモノがあればいいなあ。役に立つだろうなあ。楽しいだろうなあ」ということで入手したモノなのだが、実際には期待はずれ。

これがあれば仕事がもっと効率的に運ぶようになるのではと考えて購入した電子手帳、しかし実際には操作が面倒でひと月で挫折。たとえ平凡でも、時代遅れでも、従来の手書きの手帳が使い勝手が一番いいと、いまはそれを使っている。

電子手帳は、さて、たしか、机の一番下の引き出しの奥のほうで眠っているはずであるが…となる。

最近、太りぎみなのが気になっている。お腹まわりもボテボテになってきた。去年はくことができたGパンが、今年ははけない。このままではいけないと購入したのが、エアロバイク。スリムなボディのために、そして健康維持のためにも、暇を見つけて自転車漕ぎをしようと思っていたが、一週間で挫折。もう半年も乗っていない。いまは、ちょっと風変わりな部屋のインテリアになっている。

どうせもう使うこともないのだし、捨てたほうがいいとわかっている。

しかし「捨てられない」。

これも人間関係の「腐れ縁」と同じである。

別れたい、捨てたいと思いながらも、どこかに未練が残っている。

もし別れてしまったら、捨ててしまったら「あとで後悔することになるのではないか」という気持ちがうずく。吹っ切れないのだ。