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button-only@2x 「木登りブタ」は、おだてておきなさい

「人を立てる」というのは、人間関係を円滑にするために役立つ方法のひとつである。それは間違いない。しかし「立てる」と、いい気になってふんぞり返る人というのがいる。こっちの気持ちは円滑どころではない。「なんでこんな人を立てなきゃいけないんだ」と腹が立ってくる。そんな経験はあなたにもあるだろう。

できればかかわりをもちたくない相手である。しかし取引先のおエライさんで、うまくかかわっておかなければ仕事に支障を来(きた)す関係だったりすると、拒むわけにはいかない。あなたはぐっとこらえて立てる。相手の意見を尊重し考え方が食い違っても露骨な反論はせず、慎重に言葉を選び、相手の話優先で聞いてやる。しかし相手は、あなたが下手(したで)に出るのをいいことに、調子に乗ってますますふんぞり返る。

「なんだよ、いい気になって威張りくさっているんじゃないよ」

あなたは腹のなかでは憤慨(ふんがい)しているのだが、それを抑えるのも仕事のひとつだと言い聞かせ、ひたすら相手を立てるのだ。

なんと疲れることか。ストレスが積もり積もって、よからぬことになりはしないだろうか。

こういうとき私だったらどうするかといえば、「他山の石」とする『詩経』に出てくるこの言葉は、「粗末な石でも、自分の玉を磨く砥石(といし)にできる」という意味だ。

イヤな相手は粗末な石ころである。しかし粗末な石ころでも反面教師として見れば、「人にこんな態度をとれば好かれない。私はこんな人間にはならないようにしよう」と、自分を磨くための教訓ができる。人のふり見てわがふり直せ、だ。「砥石(といし)になってくれてありがたい」と考えれば、立てるのも苦痛ではなくなるというものだ。

また、考えようによっては扱いやすい相手でもある立ててさえおけば「やっぱりオレさまがいちばん」と威張って、いい気になっている。単細胞のお山の大将だ。

「ブタもおだてりゃ木に登る」で、相手は木登りブタである。つけあがったら「おう、ブタじゃブタじゃ」と思えばいい。また、相手には「立てられている」と思わせておいて、少しずつあなたのペースに乗せていくという作戦を状況に応じて使うのも楽しめる。

威張りん坊の相手を立てるのはひどく疲れるが、見方を変えれば素晴らしい相手にもなる。どんな人にも、いいところのひとつぐらいはあるというが、「自分の玉を磨く砥石(といし)」と思えば、ひとつどころか、三つでも四つでもいいところがある。

我慢をして下手に出るばかりが能ではないのである。

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【無力をアピールするより、自力をつけていこう】

「私は何もできません」

と、自分の無力をアピールしながらまわりの人を動かしてしまう人がいる。

あるお嫁さんの舅(しゅうと)がそのタイプで、ふたこと目には、

「私はからだが弱いから」

水戸黄門の印籠(いんろう)よろしく、何かにつけてこのセリフを振りかざし、ちょっとした雑用でも嫁や孫にやらせ、自分は新聞ひとつ取りに立とうともしない。それでいて、雑用でも嫁や孫にやらせ、自分は新聞ひとつ取りに立とうともしない。それでいて、

「からだが弱いから静養しなきゃ」と元気よく温泉に出かける。

「弱いといわれたら、やってあげないわけにいかない。じゃんけんにしたら私が鬼嫁だと思われる。いったいどうすりゃいいの」

お嫁さんも腹が立とうというものだ。弱いといっている舅が実際は力をもち、お嫁さんを自由自在に操っているのである。

もうひとり、若い女性の例もある。彼女の「手口」はたとえばこんなふうだ。

重いものを運ばなければならない。十分に運べる重さだが、もちたくない。そこで

「おっもーい。私にはもてなーい」

これで心優しき男性か下心のある男性が手伝ってくれるという次第である。

あるいはコンピューターが止まった。自分でマニュアルを調べればすむものを、

「すいませーん。これ、だれか直して」

機械に弱いのがこの女性の売りで、これまた「私は何にもわからないの」と無力をアピールして人を使うのである。

弱い、無力である、わからない。これをアピールすればたいていだれかが助けてくれるので、こういう人たちは現実にはけっこうな立場だといえる。

しかし、裏にある計算がちらちら見えると、助けるほうもいい加減うんざりしてくる。また?いちいち頼りにしないでよ、自分で勉強しなさいよ。弱いふり、しないでよ、もう…となる。

この人たちは、無力を逆手に取った確信犯なのか。それとも「自分は弱い、弱い」といっているうちにほんとうに自信がもてなくなって、人に甘えなければ生きていけなくなってしまったのか。ほんとうのところはまわりの人にはわからない。わからないから、対応に困るのである。

弱さや無力さのアピールもほどほどにしたいものだ。当たり前のような結論だが、自分でできることは自分ですることだ。

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【ヤマアラシに笑われないようにしよう】

ヤマアラシという動物をご存じだろう。ウサギぐらいの小さなからだだが、背中の毛が硬化してトゲになっている。このトゲは、身を守るための武器だから、人が手で触れれば痛い。ヤマアラシ同士でももちろん痛い。

ヤマアラシも寒いときには身を寄せ合って暖をとりたいのだが、相手のトゲに刺されたらたまらない。そこでヤマアラシはどうするか。くっついてはチクっとし、チクっとしては慌てて離れる。これを繰り返して、ちょうどいい距離を見つけるのだ。トゲに刺されず、しかしお互いの体温でからだを温め合うことはできる。そういう絶妙な距離である。

人間も同じことをやっている。

深入りしすぎて、お互いに傷を負い、これではいけないと距離を置き、寂しくなったら、まただれかに接近し。これを「ヤマアラシのジレンマ」と呼ぶのだが、人間はこうして対人関係のちょうどよい距離を学習する。

ところが、人間のなかには、「ほどよい距離」が、わかっていない人がいる。相手の感情などお構いなしに、土足でずかずか踏み込み、プライバシーにくちばしを突っ込む。つきあいが長く親しくなれば、それが許されると思っているかのようである。

同じ敷地内に三組の息子夫婦が住んでいるわが家では、「つかず、離れず、侵入せず」が鉄則になっている。

たとえば、出かける人にばったりあったときに「いってらっしゃい」はいうが、

「何しに行くの? どこに行くの? だれと行くの?」などといちいち聞いたりはしない。息子夫婦の友人が遊びに来て、私も招(よ)ばれたときなどは、食事にいっしょにするが、だらだらと長居はしない。

以前、離れて住んでいたときには、まめに連絡を取り合うことで気持ちの距離を縮めていたが、隣に住むようになってからは逆に、ある程度の距離を保っている。物理的な距離が遠いときは、コミュニケーションを密に。いつも身近にいるなら、密になり過ぎないように。こういう距離のはかり方でわが家はうまくいっている。

つかず離れずの距離を保つことができるかどうか。それは、気持ちのよい人間関係をつくるうえでとても大切なことだ。相手が身近であればあるほど、つい一心同体になったような錯覚を起こしてずかずか踏み込んでしまいがちになるが、これではヤマアラシに笑われてしまう。友人、恋人、夫婦、親子、それぞれの関係の中で

もっともいい距離があるはずだ。ヤマアラシから学ぶことは多い。