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button-only@2x いい関係とは、「頼ったり頼られたり」のバランスにある

その人は、自立心がきわめて旺盛な人である。

「私は人を頼らない。人の手は借りない」

をモットーにし、だれにも依存せず、弱音を吐くでもなく、手を差し伸べられても断って、人から見ればかなり困難と思われることでも自力で解決してきた。自分でおもしろそうなことを見つけ、自分でことを起こし、自分で推し進め、失敗したら自分で始末をつけるという、まれに見る独立独歩の人でもある。

なんとたくましく、強い人であろう。これはこれで尊敬に値する。

しかしその人は、助けを求めている人の気持ちがわからない。

「なぜキミは人に頼ろうとするのか。私だったら自分でやる」とは思っても、自分とその人はパワーが違うこともわかっているし、「私を頼るな」とはねつけては相手に嫌われる。

そのことを心得ているので、たまに人助けをしょうとするのだが、困ったことにどうも的はずれな助け方をしてしまう。人に助けてもらったことがないせいか、どうしてもらえばほんとうに助かるのか、うれしいのか、それがわからないのである。

まわりの人たちも、この人にはうかつに頼れない。「自分でどうにかしろ」といわれそうで、なんとなく相談しにくい。

話は少しそれるが、プロ野球で名選手だった人に名監督は少ないとよくいわれる。

選手時代に高い能力を誇り、華々しく活躍していた人は、「できない」ということがどういうことなのか、ピンとこないからだ。おまけに名選手であればあるほど、選手たちにとっては雲の上の人だ。かつてあこがれていた人物や伝説の人物なのだから、自分たちの出る幕などないだろう」と思っている。本人はこうして孤立していく一方だ。それで、存在としては立派な監督になれても、ほんとうの名監督にはなれないというわけである。

この人にも、同じようなものを感じる。この人自身は人の依頼心というものを理解できず、人はこの人に距離を感じる。この人がつまずいても「あの人ならひとりでだいじょうぶ」と、次第に手を貸してくれなくなる。

そんなわけで、この人とは「頼り頼られ」の関係がつくれない。

人間はひとりででは生きられないなどという言い尽くされたことを改めていうつもりはないが、こんな形で孤立していってどこが楽しいものか。ここには信頼で結ばれた、気持ちのいい空気は生まれない。

頼ったり、頼られたり、支えたり支えられたり、力になりあったり、そういう関係を一切抜きにした人間関係というのは、どんなに味気ないものだろう。

自立はしているが、ときには素直に人の手も借りるし、貸しもする。そういう人でありたいではないか。

人を立てる人

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【「会話」より、「会聞」の気持ちでいこう】

小さな子供が数人で遊んでいるのを観察したことはあるだろうか。楽しそうに会話が弾んでいると思きや、これが、ぜんぜん会話になっていないことが多い。

砂場でAちゃんは山をつくりながら「あしたもお天気だといいな!」といい、Bちゃんは砂を掘りながら「きょうの晩ごはんは何だろな!」といい、Cちゃんは砂を踏みしめながら「ワタシは地球を守るためにやってきた」などと叫んでいる。

それぞれが自分のしゃべりたいことだけをしゃべって、だれかが聞いていようが聞いていまいがおかまいなしだ。人の話を受けて返すということもない。それでいて、だれも「Aちゃんが聞いてくれない」などと文句をいわない。あしたの天気と今夜のおかずと正義の味方がでたらめに行き交うひととき。大人は苦笑して見ているしかない、。

ところがである。大の大人でも似たようなのはいる。人の話をまるで聞かず、自分のいいたいことだけを口角泡(こうかくあわ)を飛ばしてしゃべりまくる。

その人の「自己主張が激し過ぎる」面は、しばしば問題になる。

打ち合わせでも、人の話よりまず自分の話で、先に口を開き、だれかが意見を述べるとすかさず、「いや、ぼくはこう思いますよ、だって、ああでこうでべらべらべら…」話を乗っ取った挙句、話をそらしてしまう。性格にいえば、この人には「そらしている」という自覚はなく、ただ自分のいいたいことをいっているだけだ。

あなたの意見はさっき聞いた、いまは私がしゃべっているのだ、勝手に流れを変えてくれるな、と相手は思う。

こういう人がいると、順番に話すとか、相手の会話を受け答えるとか、方向性のある話をするということができにくい。

「人の話を聞きましょう」

「人の意見に耳を傾けましょう」

と子どものころにもいわれたではないか。

会話には「聞く」ということも必須要素だ。ひとりでしゃべるのは、ひとりごとという。

砂場で遊んでいる子どもたちは、それぞれがひとりごとをいっているだけだからまだいい。この人の場合、人の話を聞いていないだけでなく、すかさず遮(さえぎり)り、論破し、自分の流れに持ち込んでしまう。

大の大人であるはずだが、もういちど砂場から始めてほしいものだ。

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【人の意見を尊重すれば、自分の話も聞いてもらえる】

話はつづく。その人は、共同作業をするときには、かならずその中心に鎮座し、指示を下すような役割に就きたがる。

上司はさすがに一枚うわ手で、「あいつとハサミは使いよう」とばかりに、その人を使いこなす。適材適所のプロジェクトに配慮し、主導権を与え、みんなを引っ張っていかせる。このような人は、仕事をまかせてほしいという欲求が強いから、重要な役割を与えられれば大張り切りで取り組む。だてにキャリアを積んでいるわけではない上司は、そこをうまく突いている。

その人は「オレは仕事ができる」と自負している。たしかに、うまくいけばかなりのやり手になるかもしれない。「私が私が」の自己顕示欲は、横並びから一歩抜け出るために必要なものだから、一概に悪者にはできまい。おとなしく引っ込んでばかりいる人や、意見をいわれて「はいそうですか」とたやすく折れる人よりも、リーダー的な活躍はするだろう。

しかし、人間関係というのは仕事の能率やできばえにも大きな影響を与えるのが現実である。感じの悪い人がひとりいると、士気が下がることだってある。

人の意見を論破する。なぜ相手がそう考えるに至ったかを考えられない。自分の正当性を主張することを優先させる。人の感情を考慮しない。個人プレーに走る…。

その困った癖のせいで、はっと気づいたときには共同作業をしてくれる相手がだれもいなくなっていた。なんてことにもなりかねない。

それに「三人寄れば文殊(もんじゅ)の知恵」という。人の話をちゃんと聞いていれば、それがヒントになって新しい発想が湧いてきたり、自分の価値観について改めて考えさせられたりと、得るところは多々あるはずなのだ。

自分からそれを拒んでいる人は、人にイヤがられるだけではなく、結局、損をする。

ほんとうに仕事ができる人なら、そのあたりのこともわかっている。だから人の話もよく聞くし、十分に話し合う姿勢ももっている。そのうえで自己主張するから、相手もこちらの話を聞いてくれる。

人を尊重するのは、自分の話を聞いてもらうためでもあるということだ。相手の話を十分に聞き、主張もする。それがお互いに好感をもてるのと同時に、建設的な会話になるというものではないか。