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button-only@2x 質問したなら、答えを待とう

沈黙に耐えられない人がいる。

会話の会話のなかでは、ふとどちらかが黙ることもあれば、お互いに言葉の接ぎ穂(つぎほ)を失うこともある。言葉を探しているときもある。次から次へと機関銃のように言葉を発しつづけることなど、むしろむずかしい。何となく途切れることがあってもヘンではない。それが会話というものだ。

ところがある人は、会話が途切れると妙にあせってしまうのだという。

「この人、いま、何を考えているのだろう。私が気を悪くさせるようなことをいったのか。退屈しているのか」

「私から何か話しかけるべきか。それとも静かにしていたほうがいいか」ほんの短い間にあれこれ疑問や不安が浮かび、それに耐え切れなくなって、つい自分から口を開いてしまうのだそうだ。

そのため、しょっちゅうこういうことが起きる。

「このアイデア、どう思う?」

「えーっと…」

「ダメかなあ、やっぱり。もう一度考え直したほうがいいと思う?」

「ううん。えー…」

「じゃあ、あなたはどういうのがいいの?」

矢継(やつ)ぎ早に聞いてくるので、相手は考える暇もない。沈黙に耐えられない人は、相手が考える時間を奪う人でもある。

もしも精神科医やカウンセラーだったら、「お役ご免」となる。インタビューアーでも同じだろう。自分で質問しておいて、相手に答えさせずに自分でしゃべる。そんな理不尽な会話があっていいものか。いや、これを会話というのか。

かと思えば、反対に「もっと何かいってほしい」という信号に気がつかない人もいる。うまい言葉が見つからないときには、何かいってくれればそれがヒントになることもある。質問の真意をつかみかねたときには、それにつづく言葉でピンとくることもある。そういうときに質問者に黙られては、困るではないか。

沈黙を奪うのも、沈黙させるのも、よい印象は残さない。相手が口を開くのを待つことができ、しかも自然に口を開きたくなるようにさせるのはとてもむずかしいわざだが、そのむずかしいことをできる人こそ、相手に好感をもたれるのである。

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【「いっしょに食べる」の、うまみを味わおう】

食べるということは、人生の楽しみのひとつである。おいしい料理と、気持ちの良い談笑、和やかな雰囲気、そこにうまい酒でも加われば、皿が空になることには、一日の疲れもすっかり吹き飛んでいる。

ところが、料理も酒もうまいはずなのに、ちっとも堪能(たんのう)できないことがある。

おいしいと評判の高級レストラン。実際、味は評判にたがわず、店の人も感じがよくて、雰囲気も上々…となれば、普通なら「今は満足じゃ」となるところだ。

しかし、不満が残る。イスの座り心地はいいが、居心地が悪い。早く家に帰ってお茶漬けでも食べ直したい、という気分にすらなってくる。

なぜか。気持ちのよい空気がなかったからだ。

たとえば自称ワイン通にウンチクをたれられたり、「本場イタリアではこの料理はこんなつくり方はしないんだ」と知識をひけらかされたりする。ご高説は拝聴しなければならないから、じっと耐えて聞く。苦痛である。

あるいは、「この店よりもっとおいしいところがある」などといい出す人。

きょうはこの店に来たのだから、そんなことをいわずにここで楽しもうよ…といいたい。

ほかにもいるだろう。その場にいないのをいいことに、だれかの悪口をいう人。

不幸な話や病気の話に終始する人。店の従業員に横柄な態度をとる人。場所をわきまえず大声で話す人…。

空腹を満たしたり、生きていくために必要な栄養を補給するためだけなら、これでもよしとしよう。しかし人間は、だれかとともに食事をすることに安らぎや楽しさを見出す、数少ない動物だ。99%の動物が共食をしないなか、人間とチンパンジーだけが仲間といっしょに食事をすることを好むのだそうで、しかもチンパンジーは談笑はしないのだから、談笑プラス食事は人間だけの特権といえるのである。この特権を生かさなければ、せっかく人間に生まれてきたのにもったいない。

だれかと食事をするとき、相手に心から楽しいと思われるような雰囲気とおしゃべりを提供できたら、それだけであなたは貴重な存在だ。その点だけでも間違いなく「好かれる人」であり、「招かれる人」だ。

またあの人と食事をしたい。あの人となら冷めたコンビニ弁当だっておいしく食べられる。そう思われたら幸せだ。そういう人を目指そう。

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【自分のつらさを訴えるか、相手のつらさに耳を傾けるか】

ある若い夫婦は、最近けんかばかりしている。発端はこうだった。

夫が会社でちょっと不愉快なことがあり、気晴らしに仲間と居酒屋に寄った。もう一杯もう一杯だけ、やっぱりあと一杯、これが最後の一杯…。

などとやっているうちに、終電の時間になる。慌てて家に帰ったはいいが、案の定、妻がむすっとしている。

「まっすぐ帰ってきて手伝ってよ。私だって働いているのに、家事、ぜーんぶ押しつけて」

酔いのせいもあって、これに夫はカチンときた。

「なんだよ、オレだって息抜きしたいんだよ。おまえにわかるか!」

「私なんて、息抜きなんか、したくてもできないんだからね。あなたなんかに私のストレス、わからないでしょ。私にばっかり負担をかけないで、たまには家のこともやってよ!」

「私のストレスっていうけど、オレが会社でどんな思いをしたか、わかるか」

ふたりとも我慢の限界ぎりぎりの状態だったんだろうな…とお察しする。

それにしても、なんとフげな応酬だろう。

おまえにはわかるまい、といっている夫自身が、妻の大変さをわかっていない。

そっちこそわかっていない、といっている妻もこれまた夫の気持ちをわかっていない。お互いさまとしかいいようがない。

ふたりとも自分のつらさばかり強調している。こんなにつらいのをわかってほしい、でもわかるまい、おまえにはわからないほど、おれはつらいんだ…というわけで、「わからないほどつらい」ということが結局はいいたいんだ…というわけで、「わからないほどつらい」ということが結局はいいたいのか・

もし「この人がこんなにいらいらしているのは、疲れているんだろうなあ」と、どちらか一方が思うことができたなら、もうひとりの気持ちもほぐれて、「この人も大変だったんだな」と思えたはずなのだが…。

この夫婦げんかは、どちらが先に折れるかではなく、どちらが先に相手をわかるか、の勝負になりそうだ。

夫婦だからいいようなものの、職場や友人や近隣社会での人間関係だったら、一方が先にわからないかぎり、決裂は免れない。

意地の張り合いはやめよう。さっさと「わからない」合戦から降りて、「じゃあじっくりあなたのトラブルを聞かせて」と切り出したいものだ。好感を与える条件とは、相手の気持ちをわかろうとつとめる姿勢があるかどうか、である。