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button-only@2x 「一日一笑日記」で、何回でも笑おう

あの人、なんかいいなあ…、という場合がある。どこがいいのかと思っても、うまく答えられない。なんか、話し方や立ち居振る舞いがいい、雰囲気がいい、などと答えるのだが、それだけではいいつくせない。「ほど」がいい…というのが近いだろうか。

「ほど」がいい人と会っていると疲れない。居心地がいいのである。

話がおもしろい人、優しくて親切な人、共感できる人なども、いっしょにいれば楽しい。人が人にひかれていく要因はたくさんあるが、中でもユーモアのある人はいい。その人と会う予定の日は、朝から楽しく、食事もうまい。

医学的な立場から見ても、笑いは心身の健康にも大きな効果がある。アメリカのある大学では、大学生を被験者にしてコメディー番組を見せ、血液検査をした。すると、からだの防衛力にかかわっているT細胞と抗体が増加したそうだ。そのぶん、病原体に対しての「戦闘能力」がアップしているのである。

笑いが心の健康に大いに関与しえちることはいうまでもなく、からだをも健康にしてくれるのだから、ユーモアのある人に会いたくなるのは当然だろう。

まじめで実直で、正義感の強い人は尊敬されるが、そのぶん、和やかな場面では場違いなときもある。

会社の上司であれば好ましいが、友人としては困る…というケースもあるだろう。性格的に少々の問題があっても、ユーモアセンスのある楽天性を備えた人のほうがリラックスできるし、むしょうに会いたくなるときもある。

「私は冗談のひとつもいえない性格だから」という人がいる。また、「冗談をいい合うような仲間がいない」という人もいる。

しかし、まじめな人ほど、ユーモアのセンスは光るものだから心配はいらない。

お笑いタレントといわれる人のほとんど、ふだんの生活ではまじめ過ぎるほどの性格だという。「寅さん」こと渥美清さんがまじめ人間だったことは有名だ。冗談を言い合う仲間がいないのは、あなたが冗談を受けつけないような雰囲気を漂わせているからかもしれない。ちょっと工夫すれば、相手のほうからユーモアをいってくるはずだ。

ユーモアの好きな人は健康である。ユーモアの好きな人には、人が集まってくる。

私の「まじめ過ぎる知人」は、「一日一笑日記」をつける習慣がついたという。その日のいちばんおかしかったことを日記に書いていくと、その日が楽しいらしい。

後で読み返して同じネタでも何回でも笑っているという。

彼は、私と同年だが、すこぶる健康である。

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【よくないこと】が、将来をひらいてくれる

「ふとんに入っても、いろいろ考えてしまって、なかなか寝つけないんです」

「心配事が次から次に浮かんできて、気がつくと外が明るくなっている日があったり…」

こんな悩みを訴える患者さんは、私の病院にも多い。眠れない原因を聞いていくと、大きくまとめれば「将来への漠然とした不安」である。

この不況下、会社も順調というわけでもないようだ。リストラの噂も流れているが、社長はほんとうにリストラを断行するつもりだろうか。そうなれば、対象となるのは五十歳代だろうなあ…ということは、オレが真っ先にリストラされる。これまで懸命に働いてきたのになんてことだ…と、頭の中がぐるぐるしている。

しかし、リストラにしても正味のところはわからないのである。この「わからない」というところが曲者(くせもの)であって、わからないがゆえに不安は増幅し、ひどいときには恐怖心を抱いて、びくびくしながら日々を過ごしている。

しかしまあ、どうせ想像を膨らませるなら、わざわざ「悪いほうへ」行かなくてもいいではないか。ほんとうのことがわからないうちからくよくよしていたら疲れるばかりだ。

もし、リストラがなかったら、くよくよ損ではないか。そうはいっても、心配を追い払うことはできないだろうが、少しは「いいほうへ」想像を働かせてみてもいいだろう。

リストラされたって、家計は半年ぐらいはだいじょうぶだろう。もしかしたら、リストラがきっかけになって人生が好転するかもしれない、そんな話もよく聞くしリストラがきっかけになって人生が好転するかもしれない、そんな話もよく聞くし…。眺めの夏休みをもらったと思って一週間ぐらいに渓流(けいりゅう)釣りにでも行って、後のことは、それから考えたっていいだろう。

将来、自分に降りかかってくるかもしれない「よくないこと」については、いくつもの選択肢を用意しておくことだ。リストラにあったら、逆に、ああもできるし、こうもできる、もしかしたらこういう手もあるなあ…と、幅を広げて考えておくこと。それは自分の精神的な問題だけでなく、家族のためでもあるだろう。

人の心がなぜ不安になり、夜も眠れなくなる。「よくないこと」が起きても、状況を見ながら、ああいう手も打てるし、こういう手も打てる…という心の準備さえできていれば、ほとんどの不安というものは消えてしまうはずだ。

不安というのはだれの心にも生まれる。問題は、そのとき、どう考えることができるか、であろう。

目の前の不安に「どうしよう」とおびえているだけでは、不安の種がいずれ芽を出し、茎が伸び、葉をつけ…と、「将来への不安」が膨らむばかりである。

いくつもの選択肢を用意しておくこと。何とかなりそうだ…と思えるだけで、不安というのは「安堵(あんど)」に転換する。安らかな時間を過ごせる。

不安に襲われそうになったら、対策を考えて準備をする。当たり前のような話になってしまったが、これができないで、ただやみくもに怖がっているだけの人も意外に多いのである。

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水に流せる人

【不幸だから「根にもつ」のか、「根にもつ」から不幸なのか】

その女性、六度のお見合いをして、失敗に終わった過去がある。本人にいわせれば、「一勝三敗二引き分け」なのだそうだ。相手がその気になったのに、自分が断ったから「一勝」であり、自分は気に入ったのに相手に断られたから「三敗」であり、お互い遠慮したから痛み分けで「二引き分け」である。

何人かの人が集まると、この「お見合い体験談」を披露し、とくに、「三敗」を喫した理由の段では、自分のおっちょこちょいぶりを身振り手振りで熱演し、笑いの渦となる。

昔のイヤなことや辱められたことを笑い話にできる人がいる。どういう人かといえば、この女性の場合なら、七回目のお見合いで、これぞと思う男性と出会って結婚し、満足な家庭生活を送っているからである。

「四回目で、ちょっと心が動いたのよね。ハンサムだし、一流企業に勤めていたから、。でも亭主関白になりそうなのが気になって…」妥協しなくてほんとうによかったわ。おかげで、いまはカカア天下やってます」

一方で、昔の記憶がふっと思い浮かんだときに暗い気持ちになる人もいる。

「ああ、二回目の見合い男性にしておあけばなあ…」感触はよかったのに…。私が子どものころ肥(ふと)ってたなんていうから、断られたんじゃないの」と、母親を恨む。こんな人と結婚したのも、あのとき母親がいらぬことをいうから…と、不幸な気分になる。

いまのご主人と結婚することになったのも、いまの家庭生活がうまくいかないのも、いま幸福とは思えないのも母親のせい…と根にもつ。責任は母親に押しつけ、自分は責任転嫁どころか「被害者」のような気持ちになっている。「ひどい娘だ」と思うかもしれないが、こういう考え方をする若者過が過保護な親たちによって量産されているようにも見える。母親の立場から見れば、そういう娘を自分でつくっておいて、その娘から恨まれるのだから、ワリ合わないといったところだろう。

娘の立場にしても、責任転嫁によって自分を正当化しようとするのだろうが、実際の効果は逆で、母親を恨み、いつまでも根にもつことになり、不愉快な時間が長くなる…と、結局は自分に跳ね返ってくるのだから、よく考えたほうがよろしい。

いずれにしても、、いまが不幸だから、その原因を過去に探し、その人を恨むのである。しかし、こうもいえないだろうか。母親を「根にもって」いるから、いつまでも幸福感を味合うことができないのではないか、と。卵が先かニワトリが先か、である。