「みんながそういってるよ」
便利な言葉である。たとえば、横暴な上司に対して何か主張したいことがあったとき、「私はこう考える」
というと反対されそうだ。下手をすれば、協調性がない、勝手な独走だ、会社はキミひとりで動いているわけじゃないなどと非難されかねない。そこで、
「みんなもそういっていますよ」
これで真っ向から反対されにくくなる。
「そうか、みんながそう思っているのか。じゃあ一応検討してみようか」
となる。みんなの代表を装ってうまくいく。しめしめ、である。
処世術にもなる「みんながいっている」だが、乱発すると、こうなってしまう。
「こんどの宴会、どこがいいと思う?」
「中華料理にしましょう。みんな、中華が好きだから」
「みんなってだれ? 俺は別に好きじゃないよ」
「この書類、ちょっとマズイわね。こういう書き方は避けたほうがいいわよ」
「でも、ほかのみんなもこういうふうににやってますよ」
「あなたねえ、みんなが間違っているから自分も間違っていいと思うワケ?」
これまた自分の責任からの逃げである。潔さがない。どうして「私はこうしたい」「私のミスでした」といえないのか。
「みんな」をダシにする人というのは、一見、自分を抑えて引いているようでいて、じつはけっこう強引な人だ。
みんなが、みんなが、といえば、相手はむやみに拒否できなくなる。相手はひとり、大勢には勝てないのだ。その計算が心のどこかで働いているから、「みんな」の意見や価値観を押しつける。これでは押し付けられた相手も釈然としないもんが残るだろうが、ダシにされた「みんな」も迷惑だ。あなたの主張を通すためにおれたちを利用しないでくれ。
逆に、みんなと自分をごっちゃにしない人は、よい印象を与えるものだ。
「私はこう思うけど、みんなにも聞いておきましょう」
「私の間違いでした。ほかにも勘違いしている人がいるから、伝えておきます」
さらりとそういえる人が、相手にも、みんなにも好感をもたれるのである。
【楽しく「尽くす」のが、人と人とのいい関係】
あるカップルの話だ。このふたり、どうしても意見のくい違うところがある。
彼は不満そうにいう。
「ボクがこんなに尽くしているのに、彼女はちっともボクに尽くしてくれない」
彼のいう「尽くす」とは、料理をつくってあげる、彼女が疲れたといえばマッサージをしてあげる、忙しくても彼女が合いたいといえば会いに行く…。彼女も、彼と同じようにしているのだが、彼にいわせれば尽くしていることにはならない。
どうしてかといえば、彼女は楽しそうにやっているから、というのである。
「料理は楽しいわよ『おいしい』といってもらえればよけいうれしいじゃない。時間をやり繰りして会うのも『会ってよかった』と思えるからでしょ。彼のためといっても、喜ぶ顔を見てこっちもうれしくなるんだから、自分のためでもあるわけでしょ」
というのが、彼女の論理なのだが、彼は、
「やりたくないことを相手のために我慢してやるのが、尽くすということななのだ」といい張る
さて、あなたはどちらの言い分に納得するだろうか。私なら断然、彼女のほうだ。我慢のアピールは重苦しく、我慢を強要されるのはもっとつらいからだ。
彼の理屈でいけば、やりたくてやったり、楽しんだり、喜んだり、気分よくなったりしたら最後、それは尽くしたことにはならないのである。相手のためにしたことが結果的に自分のためにもなったら、それも尽くしたことにはならないというのである。
そんなのは勘弁してほしい。重荷になるだけだ。
キミのために我慢している、キミのために嫌々やっている、キミのために無理している、キミのためにボクはこんなに頑張っている、キミのために、キミノために…。だからキミも我慢せよ、楽しむな。…というのでは、我慢の押し売りとしかいいようがない。
「見よ、これが人のためということなのだ」とばかりにしぶしぶものごとをしてもらって、どこが気分がよいものか。「そんなにイヤなら、やってくれなくてもいいよ」と願い下げにしたくなるではないか。
好かれる人は、「人のため」にすることでも、楽しんでする。そして相手といっしょに楽しむことができる。
同じ尽くすなら、こうありたい。
【押し付ける人ほど、結果に不満をもつ】
入社して数年たったその先輩は、やたらと後輩に仕事を押しつける、仕事をさせるのはいいのだが、問題は自分でできることでも人にやらせ、その結果にケチをつけるということだ。
上司に命じられた仕事を「ちょっとこれ、手伝って」と半分以上押し付けて、できあがった後、、
「こんなのじゃダメだよ。どうしてもっとうまくやれないんだ」
相手は自分の仕事でも忙しいさなか、断らずにやったのである。
「押しつけておいて何をぬかす。それなら自分でやってくれ」
ムッとくるのも当然だ。
先輩が不満をもつのは、想像していた結果と違うからだ。先輩の頭の中では「ここはああして、あそこはこうして」とすっかり筋道ができあがっている。それと異なるから「あれ、思っていたのと違うぞ。何だよ、これは」となる。
おまけに先輩は、「自分だったらここはこうしたのに」「自分だったらこういうやり方はしなかったのに」とも考える。それでますます人のやったことが不満になる。
これまた「私とあなたの違い」が、わかっていない人である。この手の人が好かれない理由はここにある。自分の予想どおりにならないと不満たらたらだから、イヤガがられるのだ。
押し付けた後で、
「ありがとう、おかげで助かったよ。ボクがやるよりよかったみたいだ」とフォローすればいい。そうすれば相手には「押し付けられた」ではなく「お役に立てた」という気持ちが残るではないか。
もうひとつ、押しつけ屋はまた、支配欲求の強い人でもある。
支配欲求というのは相手を力でねじ伏せよう。支配下に置こうとする気持ちで、これが強ければ強いほど、権力、武力、腕力に頼ったり、立場を笹に着たり、相手を意のままに動かそうとする。
ある心理学者が、アメリカの歴代大統領の就任演説をもとにして性格分析をしたことがある。それによると、任期中に戦争を起こした人は例外なく、さまざまな性格の要素のなかで支配欲求がもっとも強い人ばかりだったという。
「世界一強い国であらねばならぬ」とされているアメリカの大統領になろうというぐらいだから、支配欲求が弱ければ仕事にならないのかもしれないが、それにしても例外なく戦争を起こしたというのだから、支配欲求、おそるべしである。
あなたは何かを人に押しつけてはいないだろうか。善意、我慢、価値観、好み…。思い当たる節があったら、もう一歩突っ込んで考えてみよう。あなたはそれを押しつけることで、無自覚のうちに相手を支配しようとしてはいないだろうか。あなたは無自覚でも、相手はどう受け取っているのか…要注意である。