「条項が無効または実施できないと判断された場合、これらの条項の有効または実施できる部分および残りの条項は引き続き有効かつ実施できるものとして……」
これはある規約の文章だが、一読してすんなりと頭に入ってくる人がいるだろうか。法律的なこととはいえ、「もうちょっと何とかならんかい」と頭が痛くなる。ふだんの会話でもわざわざこむずかしくいう人がいる。漢字の熟語をやたらと織り込んだり、外国語を乱発したり、もってまわった言い方をしたり、門外漢に話すときにまで専門用語を使ったり、だ。
何だかエラそうである。しかし「エラそう」なだけで、ほんとうにエライと思われることはあまりない。内容の薄さを難解な話し方でごまかしていると思われたり、賢く見せるために無理をしていると受けとられる場合の方が多い。むずかしく話したからといって、みんなが「ははーっ」と恐れ入るほど、世の中、単純ではないのである。
こういう人は「よくご存じですね。私なんかにはむずかしくてさっぱりわからないや」と応じると喜ぶので、扱いやすいともいえるが、好感がもてるとはいいがたい。
盗聴法(通信傍受法)の審議のとき、ある政治家が国民に詳しく説明するように求めたところ、別の政治家がこういったそうだ。
「専門的な内容にまで話が及ぶから、一般の国民にはわからないだろう」
わからないだろう、ではない。どうしてわかりやすく伝える工夫をしないのか。
むずかしく話す人の本音はこれではないだろうか。
「どうせキミたちにはわからないだろうな」
しかし、相手を見下して理解不能なしゃべりに終始する人は、相手からバカにされることもある。「なーんだ、語彙や表現力が貧しいだじゃないか。専門にあぐらをかいて視野が狭いだけじゃないか」と。
反対に、ほんとうはむずかしい内容を、平易な言葉でわかりやすく話してくれる人がいる。専門用語も日常的な言葉に直し、ときにはユーモアも交え、どこで区切れるのかわからないような、だらだらした話し方はしない。相手の反応を見て、
「いまのところは伝わりにくかったかな」と感じたらすぐに言い換える。
こういう話し方ができる人を見ると「頭がいいな」と思えるし、よい印象も残る。
人から好かれる話し方とは、わかりやすく伝えること、ひとりよがりに陥らないこと、これにつきるのではないだろうか。
【人に合わせるより、意見を伝えて歩み寄ろう】
Aさんの悩み、「協調性があるのに、何となく人から敬遠される」ことだ。これはなぜか。話を聞いてみると、確かにAさんはまわりの人たちによく合わせる。
同僚が「きょうのお昼はおそば屋さんに行こう」といえば、ほんとうは洋食が食べたくても「そうしましょう」。恋人に「きみは赤い服が似合うんじゃないかな」といわれれば、赤は苦手なのに次のデートまでに赤い服を立てているときも、こんな調子である。
友人と夏休みの旅行の計画を立てているときも、こんな調子である。
友人B「私は沖縄がいいな」
友人C「暑いときは涼しいところに行こうよ。北海道はどう?」
友人B「やっぱり暑いときは南国の海でしょ。Aさんはどこがいいの?」
Aさん「私は沖縄もいいし、北海道もいいな」
友人B「どっちなのよ」
Aさん「ふたりで決めて。私はどっちも行きたいから」
ほんとうは軽井沢に行きたいのであるが。
Aさんの好感度がいまひとつ上がらないのは、自分を押し殺しているからだけではない。ほんとうは、だれかが自分に同調したときに、「この人本心はどうなのかしら」と疑ってしまう習癖が身についていることにある。要するに、自分がいつも無理に人に合わせて、本心を隠しているから、人の言葉にも裏があると考えてしまうのだ。
「いつも青い服を着ているのね。似合うわね」といわれると、「あらイヤだ、青は似合わないってことかしら」と真意を疑い、「Aさんは洋食がいいの? 私もそうなの。じゃあ洋食にしましょう」といわれると、「しぶしぶ合わせてくれているのだろうか。私の希望を押しとおしたように思われないだろうか」と心配になる。
このような心のありようが自然と表に出てしまい、相手は腹を探られているような気がする。あるいは、Aさんが自分の顔色をうかがっておどおどしているようにも見える。相手がいくら心を開いても、Aさんがこの調子では、相手だって、いまひとつ信用できない気分になるだろう。
社会生活を送っていく上で協調性は確かに必要だが、Aさんの場合は無理して人に合わせているだけだ。ほんとうの協調性とは、それぞれの希望を率直に伝え合い、それが食い違っても、お互いに歩み寄ることができる関係をいうはずなのだが、みなさんはどう考えるだろうか。
【無理をしない人は、謝り方で人に好かれる】
「私としたことがお恥ずかしい」
「私としたことがとんでもない間違いをしてしまいまして」
これが口癖のようになっていた人が、あるとき、こういわれたそうだ。
「おまえはいったい何様のつもりなんだ。ふたこと目には『私としたことが』って。おまえはそんなにデキる人間だと思ってるのか」
その場は、
「いえ、そんなつもりはないんですが…」
と、うろたえながらも逃れたが、あとでよくよく考えてみて内心ハッとしたという。
彼が思い当たったのは、「私としたことが」と口にしたとき、心のどこかに自分を過信する気持ちがあったのではないか、ということだった。
「私は本当はもっとできるはずなのに」
「私ともあろう人間が、こんなヘマをするはずがなかったのに」
「この私がこんな失敗をするなんておかしい」
そういう気持ちが「私としたことが」のひとことに現れていることに気がつき、大いに恥じたという。彼や彼を叱った人がいうとおり、「私としたことが」は表面的には謙虚なように聞こえて、そのじつ、不遜な印象を与えるものなのではないか。
自分を過大評価していると、何か失敗したときやうまくいかなかったときに、
「こんなはずじゃないのに」と思う。それで、次はもっとうまくやってやろうと頑張ればいいのだが、自分のほんとうの実力を知らなければ、足りないところを補うことも、いまの実力をもとに積み上げていくこともできない。
自信をもつのはいいことだ。自信のある人は余裕のある人は余裕のある生き方ができる。何かに失敗しても、すぐに立ち直れる。反対に自信のない人は、卑猥になったり、その反動で自分より弱い人や立場の低い人を見下したりする。また失敗するのではないかと思って、やり直しに躊躇することもある。
だが、自分の本当の能力を知らないと、「私としたことが」の人のようになる。無理せず、背伸びせず、自分のほんとうの姿を見極めよう。もし失敗しても、
「私の能力は精一杯使ったのですが」
と謝ればいい。「ほんとうはもっとデキる人間なんだけど」といいわけするより、はるかに感じがいいではないか。