【うまく親切にされれば、まわりの人も和む】
電車の中でこういう光景を見かけた。若い男性が客席に座っていたところ、、ある駅で老人が乗ってきて彼の前に立った。この青年は席を立ち、「どうぞ」といって老人に席を譲ろうとした。いきなり寝たふりを決め込む人も多いこのご時世、なかなか感心なことである。ところがこの老人、「いえ、けっこうです」とすかさず断ってしまった。
遠慮している。そう考えるのが自然であるから、この青年も「いえ、どうぞ」ともう一度譲った。が、返事はまたしてもひとこと、「けっこうです」。
いったん席を立った青年のほうも引っ込みがつかなくなったのか、席を空けたまま老人と並んで立つという妙な光景になってしまった。
あたりに漂う気まずい雰囲気。釈然としない面持ちの青年、そ知らぬ顔での窓の外を眺める老人。何か、空気が寒い。こうなるとほかの人も「では、私が」などといって座れるわけがない。次の駅で乗ってきた人も、次の駅で乗ってきた人も、老人が立っている目の前に腰を下ろすのは気が引ける。結局この駅は、老人が降りるまで空いたままになってしまったのである。
せっかくの親切をむげに断ることはないではないか。たかが電車の座席だ。「ありがとう」とさらりと答えて、座ればいいと思うのだが。
なぜこの老人は断ったのか。二駅ぐらいで降りるから、座るほどのことはないと思ったのか。自分は席を譲ってもらうほど年寄りではないと粋がっていたのだろうか。あるいは足腰を鍛えるため、あえて電車では座らないようにしているのかもしれない。
しかしそんな理由はひとまず脇においておき、柔軟に対応して行為を受け入れてやればいいではないか。「けっこうです」のひとことで押し切って、断固として立ちつづけたこの人は、「そういってくれるなら、まあ、きょうのところは座りましょうか」となる。それができないから、一度座らないと決めたらテコでも座らない。かたくなになって人の好意を無にしてしまうのである。
親切を頭から拒んでかかるこの手の頑固な人は、周囲を気まずくさせる。逆に親切を素直に受け入れる人は、周囲にあたたかい空気を吹き込んでくれる。
人の好意は、ひとまずありがたく受け止めたい。それが結局は、自分も好感をもたれることにつながっていく。好かれる人というのは、人の好意の受け方の上手な人でもあるということだ。
【人に好かれる人は、「断り方」でわかる】
小さな親切は、ときには大きなお世話にもなる。
「ああ、よけいなことをしてくれなきゃいいのに」
「善意のおしつけでうっとうしい」
そう思った経験はだれでもあるだろう。そんなとき、あなたはどうするか。車内の老人のように、「けっこうです」だの「いりません」ではミもフタもない。
「放っておいてくれ」。これは不協和音の元だ。「悪いけど私のやり方でやらせてもらうわ」。これもまた考えもの。遠慮なくぽんぽんものを言い合える間柄の相手ならともかく、職場や近隣社会でこれをやったら、
「何だ、感じの悪い人」
と悪印象を残すのがオチである。思考が硬直した人のことを「かんかん頭の朴念仁(ぼくねんじん)」というが、他人のおせっかいに柔軟に対応できない人もまた、立派な「カンカン頭の朴念仁」である。「よけいなお世話だ」ということにのみ思考が集約しているから、その場の空気を察することも、柔らかい断り方を思いつくこともできなくなっている。
アタマが柔らかい人は違う。自分が望んでいない親切であっても、とりあえずは「ありがとう」といえる。その程度は、「相手に折れる」ことができる。
断りの言葉を選ぶこともできるし、ときにはウソで逃れることもできる。たとえば強烈なおすすめ魔に何かをすすめられたときだ。「キミには最高だろうけど、僕はには合わないだろうね」と正論を吐くのはカンカン頭の朴念仁。そうでない人は、ウソでもいいから「それはじつに使ってみたことがあるんだけど、合わなかったんだ」などと、とりあえず答えておく。これなら好意を拒否することにはならない。
肝心なのはそこのところだ。拒否するべきは、相手がすすめるモノや、要らぬお世話の内容であって、相手の好意ではない。
つっけんどんに断ったりしてしまう人は、それがごっちゃになっている人だ。
よけいなおせっかい。そう思っても、ひとまず「ありがとう」と好意だけは受けておこう。それで、あとにつづく断りの言葉も和らぐというものだ。断るなら「ありがとう」のひとことのあとに断っても手遅れではない。
もちろん、あなたが、相手を寄せつけたくないのなら話は別だ。「いや、けっこう」とぶっきらぼうに言い放てば相手は引く。これほど他人を拒む断り方もないだろう。
【「断れない人」ほど、人との関係に悩む】
上手に断ろうと思ったら相手の緊張をほぐすことが肝心だ。
知人の「断り上手」な人の話をしよう。この人は講演やら執筆やらで多忙を極め、そのぶん、せっかくもち込まれた仕事を断ることも多い。しかも断るときはためらったり気をもたせたりせずに、はっきりと断る。だがこの人は、けっして「忙しいからできない」というようなせりふをを吐いたことがないのだという。あるときは、こう断ったという。
「ドリーちゃんをつくればできるんですけど」
クローン羊が話題になっていたころだ。これで相手はクスっと笑った。断ったときにしばしば漂う気まずさや緊張感のようなものは生まれない。あとはふたりで
「ドリーちゃんってかわいいですね」「あれは親子でも双子でもない、何ていうんでしょうね」「そりゃ、やっぱりクローンでしょう」などというたわいもない話で笑いあって、和やかに電話を切ったそうである。
このひとひねりが会話を丸くし、その後の人間関係も滑らかにする。またあの人と話したい、と思わせる。「忙しいからできない」では、「そうですか、ではまた」で終わってしまうだろうが、断られた側には、気まずさどころか、「楽しいおしゃべりをした」という感覚が残ったことだろう。
何でもかんでもありがたく受け入れるばかりが能ではない。かといって、気を悪くさせないようにと遠回しに断っても、相手に通じない場合がある。ならばこの人のように、「はっきりと断りつつも空気を柔らかくする」術を身につければいい。
例の車内の老人にも、ジョークのひとつやふたつはほしかった。
「私、老けて見えますけど、じつは四十代ですから」
「座ると万歩計がうごきませんでねぇ、ははは…」
「恥ずかしながら、お尻に巨大なおできができまして」
それで周囲の空気がどんなに違ったことか。はっきりと断る意思表示にはなっているのに、これなら「そうかい、とけいなおせっかいをしちゃったのかな」と相手を不安にさせることもない。「電車で見かけたおかしな人」として家庭や職場や学校で話のネタにしてもらえるではないか。和やかに楽しく断れる人は、「断らない人」以上に、人間関係を滑らかにするものだ。「関係を壊したくないから断らない」という人は一考を。