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button-only@2x ときには自分でもビックリするくらい怒ってみる

【自分をコントロールしながら怒る法】

いつでも怒鳴り散らしている人は、それでストレスが解消されているかもしれませんが、つねに、自分を抑えている人は、いつか、ああいう風に怒鳴り散らしたいという願望があるでしょう。

ストレスを溜めないために、中には、なにかあればすぐに周囲の人に対して怒鳴り散らすという人もいるようですが、それで問題そのものがすぐに解決されることはまずありません。

解決にならないのに怒鳴ることは、まわりの人にとっては迷惑な話です。怒鳴ることがクセになってしまうこともあります。

そういう醜態を見ていると、人を頭ごなしに怒鳴るなんてなんとみっともないことだろう、と思い、なおさら自分を抑えるようになります。

けれども、感情をあまりにも押さえつけることは、けっしていいことではありません。自分の気持ちに忠実である限りにおいて、ときには「怒る」ことも大切です。興奮して怒鳴るというのではなく、「きちんと怒る」ということです。

そのとき、自分の感情をきちんとコントロールできているかどうかが問題です。「怒る」とたいてい、自分の言葉に腹が立ってきて、だんだん感情がエスカレートし、暴走気味になるものです。

そこで、しっかり自分の感情にブレーキをかけられるかどうか、自分の自己調整機能を試す意味でも、ときどき「怒る」ことが必要なのです。

「怒る」べきときに感情を抑えてしまうと、当然、エネルギーが内部に向かってストレスになります。他の方向に発散することで解消できるのならばいいのですが、その「怒り」の発生原因がいつまでも消えないのであれば、頃合いを見はからって「怒る」ことで効果的に問題を解決するほうが健康的です。

いつもは怒らない人が怒ると、みんなが驚いて注目してますから、ついでに日頃から気になっている問題を一層してしまえばいいでしょう。うまく怒れば、こんなに効果的な自己主張の方法はないのです。

ただし、あまり調子に乗ってあれもこれもと主張するとやりすぎになってしまいますから、最重要な問題いくつかだけにとどめます。

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【人に幸福をあげることが自分の幸福につながる】

— 何かをしてあげられる幸福を実感する —

これまで自分が生きてきて、もっとも幸せだと思った瞬間の中には、だれかに感謝された瞬間があるのではないでしょうか。自然な気持ちで自分の中から湧き出してきた何かの行為を、だれかにしてあげたときに、「ありがとう」と言われたその一言が、きっと耳に焼き付いていると思います。

人はついつい日常の中で、自分や家族、自分の会社など自分が所属する集団の利益を追求しがちですが、人間としての充足は、利益の追求だけでは得られないのです。

たとえば、自分の子どもが、近所の同級生の子より成績がよくて、いい学校と言われる所に進学できたとしても、それは充足にはつながりません。友だちといっしょに希望の学校に進学できたときに、はじめて「よかった」と感じるでしょう。

つまり、自分の幸福は自分だけの幸福では得られないのです。

このことからもわかるように、人間関係の中で、一番大切なのは、人に何かをしてあげるということではないでしょうか。その前に、人に何かをしてあげられる自分があるということも幸福なことだと言えます。

それは、自分が人を幸福にする力があるいという充足感でもあるし、その充足感をみんなに伝えることができるという気持ちともにつながります。

恋愛関係でも、また、友人関係でも、相手に何かをしてあげるということは、途方もなく大きな幸福感をもたらすことをご存じでしょう。ちょっとしたプレゼントすをする、料理を作って食べさせる、相手のことを思って努力するということが、人にはとてつもなく大きなエネルギーになります。

そんな恋愛や友愛のエネルギーと同じように、見ず知らずの人に対してであっても、その人が少しでも幸福になることが、自分の心にとっても、とてもいいことなのです。そして、相手がほんのわずかでも感謝の気持ちを持ってくれれば、もう言うことは何もありません。その感謝が、また自分の幸福になるのですから。

もし、これが、社会全体で実行できれば、世の中は幸福と感謝であふれることになるのですが、そこには元手がかからないことに注目が必要です。そのエネルギーは、その行為そのものなのです。言うまでもなく、人にあげた幸福は、自分にきっと戻ってきます。これで、二重三重に幸福になれるわけです。

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【助けを必要としないときにこそ人間関係を築く】

— 困ったときに頼むよりふだんのつきあいが大切 —

現代社会の生活が、あまりにも目まぐるしいせいもあって、私たちは日常的に、本当に大切な人との連絡や関係を怠りがちです。

たとえば、遠い故郷に両親がいる場合など、こちらから電話をするのは、せいぜい盆・暮れくらいのものでしょう。それも、相手のことを心配してではなく、自分たちが何日に行くからよろしく、という事務的連絡事項でしかないでしょう。

それと同じように、いざというときに頼りになる友人、知人というものも、ふだんはほとんど連絡を取っていないことが多いと思います。

たとえば自分や自分の家族が結婚する、などというときに、親戚や友人を集めることができるキーパーソンとなる人たちは、恐らく、一年以上連絡を取っていないような人たちなのです。

また、急に何百万円かの資金が必要になったとして、銀行もすぐには貸してくれない、だれに融資を頼めばいいだろうとよくよく考えてみると、やはり、頼りになるのは日頃疎遠になっていても友人や親戚、親や兄弟ではないでしょうか。

そういう、困ったとき、重要なときにどうしても必要になる人間関係は、よくよく考慮してふだんからメンテナンスを怠らないことです。

どんなに親しい友人でも、何年間も年賀状程度で音沙汰がなかったのに、急にお金を用意して欲しいと言われて気持ちがいいものではありません。そのくらい用意したくても友人としてそういう関係の保ち方がお互いにとって本当にいいものかどうか、疑問が残るからです。

無心をしてきた相手が、本当にお互いを尊重し、理解し合っているはずの友人だったら、「ふだん、連絡も寄こさずに、そういうことを突然いうものではない」と諭したほうがいいくらいでしょう。

親戚同士でも、従兄弟たちの結婚の時期が過ぎると、今度は身内の葬式でしか顔を合わせなくなるものですが、それではあまりに寂しいというもの。たまには、盆の時期にいっしょに墓参りをするとか、正月にみんなが集まれるような場を設けるといったことを考えるべきでしょう。

これが、日常に埋まらないように自分をメンテナンスすることにもなるのです。