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button-only@2x 自分の環境をガラリと変えてみる

【適応力さえあれば人生だって変えることができる】

生まれてこの方引越などを経験したことがないという人はあまりいないでしょう。だれでも、一度や二度の引越経験があるものです。

子どものころの引越は、だれでもイヤなものでしょう。引越をするということはたいていの場合、転校することを意味しますから、イコール、友だちとの別れとなります。それまでに築いてきた人間関係を失うのですから、子どもとっても一大事です。もちろん、おとなの世界でもたいへんですが。

現在、賃貸住宅に住んでいれば、いつかは引越しすることになります。そういう機会に、思い切って自分の環境を変えてみることを考えるのもいいでしょう。

仕事は順調だけれど、今ひとつ将来の展望が見えてこないとか、家族はみんなうまくいっているけれど、もうひとつ一体感がない、という中途半端な状況というのがよくあります。

そんな時に、ある時期を設定して、たとえば、子どもの高校進学などの時期に、ちょっと忙しくなりますが引越を仕掛けるのです。「孟母三遷(もうぼさんせん)」という話がありますが、環境を変えることで自分の人生にも変化をつけるのです。

持ち家を手に入れればその町に長く住むことになりますから、新しい環境で周辺の人たちと仲良くするために社交的にならなければなりません。引っ込み思案の人でも、近所付き合いをせざるを得なくなります。

通勤、通学の路線が変われば、気分も大きく変わります。まさに、住む場所によって人の気持ちも大きく変化するのです。

これは会社の都合の場合ですが、アメリカ転勤を命じられた人が、高校一年生と中学一年生の子どもを引き連れてアラバマ州に引っ越したという例があります。最初はお父さん以外英会話も満足にできず、生活環境が変わって大変だったのですが、家族の一体感が非常に強くなったというのです。

なにしろ、言葉が不自由なので、どこに行くにも家族が一緒で、日本にいたときの家族がバラバラ状態が、一転して一体になったのです。

家族が一体になれば、気分も明るくなり、楽しく生活できますから、言葉の問題も時間が解決してくれるのです。

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【自分は天才だと考える】

— だれにでも隠れた才能がある —

素晴らしい絵画や詩に触れたりすると、天才的な画家や詩人などは、どこでこんなインスピレーションを得ているのだろうと感心します。天才は、よく感動する人なのだろうなとも思います。

私の友人でもあった故岡本太郎(おかもとたろう)氏は、「芸術は爆発だ!」という名のセリフを残し、きっとあのカラフルな作品のような爆発的なインスピレーションが湧くのでしょう。

そのインスピレーションが生まれるきっかけとなるのも、恐らく心のアンテナが何を感じ取るかということでしょう。アンテナの感度が高いかどうかが天才とそうでない人の違いかもしれません、。

アンテナの感度が、完成を磨き上げることで高まるとしたら、だれにでも天才を発揮する可能性があるともいえるのです。そんな才能ありません。という人に限って、いいセンスを持っているものです。

幼稚園やそれ以下くらいの子どもは、みんな天才的な画家です。だれも描いたことがないような抽象的な絵を描いています。人間の顔が三角形だったり、太陽が真っ黒だったりと、ピカソやミロ以上です。それが、小学生になるとほとんどの子どもがどこかで見たような絵を描くようになります。

これは、先生をはじめ周囲のおとなたちが、「人の顔は丸でしょ」とか「お空は青くしましょう」「お日様は赤ににしましょう」とありきたりの常識を押し付けるためだとしか考えられません。太陽が赤いなんて決まっていません。朝日はほとんどまっ白に近いのです。

それになのに、既成の概念、常識という名の強制を押し付けるから、天才画家だった子どもが当たり前のものしか描かなくなるのだと思います。

つまりもともと自分は天才なのに、それが抑圧されているだけだと考えることもできます。世の中の規制なんて表現の上では守る必要はない、自由に表現するのだ、と自分を束縛から解放することを考えてみましょう。

そして鉛筆をとってもいいですし、直に手でペインティングするなどというのも刺激になっていいものです。粘土で造形してもいいでしょう。天才は自分で束縛をはずして作り上げるものなのです。

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【学歴や肩書きは関係ないと考える】

— 問われるのはその人の感性と実力 —

日本が欧米型の実力社会になりつつあるといっても、いまだに官僚の天下りはあるし、不良債権の山を作り上げた大銀行の幹部は莫大な退職金を得て、さらには、特殊法人などの理事長や理事たちは大した仕事もせずに高い報酬を得ています。

ああいった人たちは、バブル以前の高学歴高収入の時代の名残のようなもので、恐らくこれからは消えていく特権的階級なのでしょう。

いってみれば、今は、収入が限られた給与労働者にとってだけ厳しい「実力社会」で、かねてからの特権的階級にとっては、

世間の目からするとまだまだ好き放題にうまい汁を吸っているといった状態です。

そういう矛盾が蔓延する社会全体の態勢は批判はできても、簡単に改革するというわけにはいきませんが、自分たちの職場で直接行われる差別待遇にははっきりと反旗を掲げるべきです。

とにかく、学歴が低いからといった理由でその人の能力に関わらず、低賃金、長時間労働をさせることができる時代ではないのです。反対に有名大学卒だからといって仕事に関して有能だとは限らないことももはや周知の事実です。

現代社会で求められているのは鋭い感性と実践力です。大学卒より、即戦力になる専門学校の卒業生が注目されているのもその表れで、就職率でも現状でははるかに大学卒を上回っています。

高度情報化され、個人の感性が発揮されるような場は減っているようにも思えますが、機械を使いこなすのはやはり人間なので、そこでヒトならではの感性が必要になるのでしょう。

なにしろ、機械は正確に計算することはできても、途中で他の計算方法を思いつくことはありません。「これだ!」という閃き(ひらめき)きがヒトならではの感性が必要になるのでしょう。

なにしろ、機械は正確に計算することはできても、途中で他の計算方法を思いつくことはありません。「これだ!」という閃き(ひらめき)がヒトならではのものなのです。

言ってみれば、機械は疲れたり仕事に飽きたりしないので、「もっとラクな方法はないか」などと考えないことがヒトのいちばんの違いで、効率的、創造的な方法を求めて人間は発展するのかもしれません。

毎日、同じことをしているようでも、その中に何かの可能性を見つけたり、ちょっと違うことを試したりする、それが感動の元と言えるでしょう。