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button-only@2x 醜いものも直視する

【自分にとってマイナスなものは何かを知る】

美しいもののイメージが自分の心のイメージが豊にしてくれますが、世の中はじっさいには醜いもののほうが多いかもしれません。醜いものもしっかり直視しないと、実態を打開できない場合もあります。

つまり、醜い出来事、醜い行為、そういうこともあるがままに受け入れざるを得ないことがあるのです。それは、失敗を避けないということでもあるし、失敗から目を背けないことでもあります。

もともと人間の行為の半分くらいは醜いものと関わっている、といっても過言ではないでしょう。たとえば、同業者を出し抜いて、自分のところに仕事を持ってこようという行為は、正当な競争である限り、資本主義社会では当たり前のこととされていますが、出し抜かれて仕事を奪われる側から見ると、とても許せない行為なのです。

価格やサービス、内容で競争するのが資本主義の原理であるとはいっても、やはり出し抜くという行為であることに変わりはありません。

それは、子どもの社会でたとえていえば、教室に花を活けて先生に褒められる、という行為を、友人が翌日実行するつもりなのを知って、出し抜いて花を活けて、先に褒められるような行為です。

人がなぜそういう行為をするのか、というところを直視する必要があります。社会の中で、群れの中で自分の評価を高めたいという欲求、願望があるのです。

けれども、それが競争につながるとしたら、とりあえず資本主義社会である限りあながち否定されるものではないこともわかるでしょう。

もうひとつ、醜い部分を知ることで、人の心の本当の美しさがわかる、ということがあります。たとえば、人は他の人を助けることができます。ボランティアで福祉活動の手伝いをする人の心は、北海道の摩周湖のように澄んでいるのかというと、そうとばかりも言えないこともあります。

ボランティアの人同士で、いじめがあったり、権力闘争があったりもするのです。そういった、人間の心の醜い部分を認めた上で、一緒にできることをやっていこう、というスタンスでなければ、ボランティアもうまくいかないのです。

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【好奇心を忘れない】

— 新しい発見は好奇心からしか生まれない —

人間一人の感性というものには、おのずから限界があります。一人ですべての素晴らしいことを創造できるようなら、その人はまるで神のような存在です。自分一人ではできないからこそ、他の人とコミュニケーションをとって、一緒に何かを考えたりするのです。「三人寄れば文殊(もんじゅ)の知恵」というわけです。そんな、人間の感性の源泉となっているのが好奇心だと思います。

子どもは好奇心が旺盛です。赤ちゃんは音のするものに手を伸ばし、一日中飽きもせずに遊んでいます。幼稚園児は、道ばたの草花にも、川のせせらぎにも、風の音にも興味を示します。先生が言うことより、自分たちが発見したもののほうに強い関心を示すのです。

赤ちゃんや子どもたちは、好奇心を持って自分で体験することで、知能を高めていきます。おとなから見たら当たり前のことでも、子どもたちにとっては知能を高める高度な学習なのです。

それでは、なぜ、おとなは好奇心が薄れるのでしょうか。それは、知識を高めようという欲求が薄れているからです。おとなでも、好奇心の強い人がいます。もののしくみや、社会システム、法律の体系、野鳥や昆虫などの生物に強い興味を持っている人がいます。

好奇心が薄い人は、恐らく仕事をしていても新しいシステムを考えようとはしないタイプの人でしょう。与えられた仕事をこなして、さっさと終わらせて、家に帰ってテレビでも見る、というタイプ。それはそれでひとつの生き方でしょう。

好奇心が強い人は、たぶん、仕事を与えられてももっと効率的で楽な方法はないだろうか、と模索するタイプでしょう。与えられた以上の仕事ができるような新しい方法を編み出したりするかもしれません。

このどちらのタイプがいいとはいえません。仕事によっては変えないほうがいいものもあるからです。けれども、ひとつだけ明確なのは、自分自身に対して好奇心を失ったら、そこで、人間としての成長が止まってしまう、ということです。

自分に興味がない人に、だれが注目するでしょうか。自分をもっと向上させる、自分の存在をもっと面白くするという発想は、人生のどんな場面でも大切です。自分の中に毎日何かを発見して感動する、そんな好奇心を持ちたいものです。

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【「当たり前」にも感動する】

— 何にでも感動する人生は素晴らしい —

かつては、外国映画の宣伝文句などに「感動巨編」という言葉がよく使われていました。最近は、あまりにもわざとらしいと思われるようになったのか、そういう惹句(じゃつく)はあまり見かけませんが、映画を観て感動するのはいいことです。

だいいち、せっかく高いお金を払ったのに、感動しなかったら損というものです。映画を観る人ができるだけ感動しようと考えるのも無理はないでしょう

それでは人生での感動はどうでしょうか。スポーツで活躍、大学合格、高校卒業、恋人との出会い、就職、結婚、海外旅行、出産、子どもの進学など、さまざまな出来事で感動した記憶があるでしょう。

けれども、ある程度生活が安定してくると、とくに感動する機会もなくなってくるのではないでしょうか。というより、感動しようととしなくなっているのかもしれません。

初めは熱烈に愛し合った夫婦にも、いつか倦怠期(けんたいき)が訪れるとされていますが、それと同じように、感動しなくなった人生は、人生の倦怠期といってもいいでしょう。

感動のない毎日が、おとなの毎日だとしたら、どんなにかつまらないものでしょう。

赤ちゃんの時や子ども時代のように、新鮮な感動がたくさんあったほうが、毎日が楽しいはずなのです。

仕事でも、家庭の日常でもマンネリという状態はあります。それは、ある意味でいえば安定しているわけですが、おとなにとって、もしそれで構わなくても、子どもたちにとってはどうでしょう。

親がマンネリ生活をしていたら、子どもにまで若いうちからそのマンネリが伝染してしまうかもしれません。子どもたちはある意味で純粋ですから、いつの間にか親の生活をそのまま自分たちのライフスタイルにしているものなのです。

おとなとしても、人生は一度なのですから、できればたくさんの感動のある人生を送ったほうが、映画を観て感動するようにお得だと考えてみてはどうでしょう。よ~し、これから何でも感動してやるぞ、と思って物事を見ると、いろいろなものが違って見えてきます。

たとえば、今日の天気。「ああ、曇りだね」と言うのは簡単ですが、そこから低気圧がきて、どこにいくということまで考えると、実に変化に富んでいることがわかります。